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2011年3月21日 (月)

北インドの旅(2011/3初旬)(その2)

北インドの旅:1~2日目

 今回ツアーのインド現地ガイドSさんは、デリー大学でインド歴史学を専攻したマスターで、現在、本職は、カレッジの教授。デリー大学で日本語も習ったが、使わなければ忘れるし上達もしないから、その場として、余裕時間がとれる時だけ、日本語ツアー・ガイドのアルバイトということ。
 なおさらに、インドで唯一の、大使館員、政治家に対する公式ガイド免許を持つ、スーパー・ガイド。
 過去、日本の防衛大臣がインド政府を訪問された時にも、ガイドを勤められました。
 そのスーパー・ガイドの言われるには、「皆さんの日本のインド・ガイドブックには実際、色々な間違いがいっぱいあります」、とバッサリ。

 本文は、ガイドブックを参照しましたが、Sさんのガイドによる修正もあります。また勝手な思い込みなどもありますが読み飛ばして下さい。やはり自分の目で確かめて納得するのが一番で、百聞は一見にしかず、です。

1日目:成田からデリーへ(所要時間約10時間)
 当日は晴天で、ヒマラヤ山脈が見えると機長の機内放送があり、チョモランマ(エベレスト)も遥か遠くでしたが視認できました。
 デリー空港を降りたところで、出迎えのガイドSさんから歓迎・祝福のマリーゴールドの花輪を首からかけてもらい、宿泊ホテルへ。
                              (デリー泊)

 
2日目:デリー観光、(夜、寝台列車でベナレスへ移動)
 午前:
◯世界遺産:クトゥブ・ミナール(13世紀初頭、イスラム王朝が建設したモスクなどの集合体):
 1993年、クトゥブ・ミナールとその建造物群が世界遺産に登録された。デリー観光で見どころの一つ。
 ニューデリーの南郊外約15kmの平原にそびえ立つ高さ72.5mの塔はイスラム最初の記念碑。以前は100mあったが、飛行機事故で現在の高さになった。基部の直径14.44m、5層のうち下3層は赤砂岩、その上は大理石と砂岩で築かれ、コーランの文句を図案化した彫刻が外壁に刻まれている。
 奴隷王朝Slave Dynastyのスルタン、クトゥブウッディーン・アイバクが、ヒンドゥー教徒に対する勝利を記念して建てたもので、アイバクは在位4年(塔は未完)でこの世を去った。そののち、後継者が増築して現在の姿になったという。
 以前は内部のらせん階段を伝って登れるようになっていたが、転落事故があって以来、登塔が禁止されている。
 なお、塔のすぐ脇の「クワットゥル・イスラーム・モスク」が美しい。インドに初めて造られたモスクと言われており、破壊したヒンドゥー寺院の石材を使って建立したものである。柱1本1本に施された細かな彫刻が見どころである。
 敷地のすぐ北に、アラーイーの塔の基部が巨大なチョコレートケーキのように残っている。クトゥブ・ミナールの塔より高い塔を建てようと計画されたが、王の死により実現しなかったという。
 また敷地内にはモスクとイスラムの教えを学ぶ学校が一体になった建物もある。
 樹木としてはニームの木がたくさんある。この小枝を今でも歯磨きに使っている人々を街中でも見かけた。21

 
 昼食はタンドリー(釜)料理。

 
◯インド門:
 インド門はニューデリーの中心コンノート・ブレイスの東南2.5kmにある高さ42mの門。第1次世界大戦で戦死したインド兵士の慰霊碑で、インドは戦後の独立を条件にイギリスに協力して参戦したが、大きな犠牲と引換の独立は実現しなかった。壁面には戦没者1万3500人の名前が刻まれている。
 あいにくの曇り空。霧なのか埃なのか、霞む門。2_81_2

 
◯世界遺産:フマユーン廟:
 1993年、世界遺産登録。民衆の墓は大地に帰り(もっともヒンドゥー教徒は遺灰のすべてをガンガーに流すためには墓は持たないが)、皇帝の墓は観光地になって、国家財政に貢献している!
 5000年の歴史と日本の9倍に近い国土と豊かな自然を持つインド。この国の観光の主体は「ムガル帝国の歴史」をたどる旅と言っても過言ではない。
 ムガル帝国は1526年、アフガニスタンからティムール(モンゴル)の血を引くバーブルが侵入し、デリーの新しい支配者になった。これがムガル帝国の始まりである。
 初代皇帝バーブルはローディ朝を破ってデリーの新しい支配者になったが、わずか4年後に亡くなった。
 そして第2代皇帝がフマユーンである。フマユーンは1540年ビハールの地を従えたパシュトゥーン人(アフガン人)の将軍で、のちにシェール・シャーと名乗るスール族のシェール・ハンに大敗し、これ以降インド北部の君主の座を奪われて、ペルシアに亡命し、流浪の生活をおくった。
 やがてイラン(ペルシア)のサファヴィー朝の支援を受け、シェール・シャー死後の1555年にはアグラとデリーを奪回して北インドの再征服に成功したが、翌1556年に事故死してしまった。
 そしてその廟(フマユーン廟)は1565年に、妃ハージ・ベグムによって建造されたものである。
 庭園の中に廟を置く形式で、後にその影響を受けて建てられた有名な「タージ・マハル」に比べれば小さいながらも、インド・イスラーム建築の傑作とされている。
 中央にドームをいただく左右対象の建築は安定感があり、赤砂岩に白大理石をはめ込んだ色のコントラストも綺麗。2_3

 
◯ラージ・ガート:
 インド独立の父・マハトマ・ガンディが火葬されたガートに造られた大理石の記念碑。ヒンドゥー教の習慣に従って遺灰はガンジス川(ガンガー)に流された。
 『ガンジー自伝』はいつ読んでも感動的です。24

 
◯世界遺産:ラール・キラー(別名レッド・フォート):
 ムガル帝国の赤い砦、ラール・キラー。この広大な城は1639~48年、アグラからデリーに都を移した第5代皇帝シャー・ジャハーンによって建設された。その後セポイの乱の際に多大な被害を受けたが、城内にはムガル時代の面影が色濃く残っている。
 第5代皇帝シャー・ジャハーンの王座には、サファイヤやルビー、エメラルドなど世界中から集めた宝石が埋め込まれて燦然と輝いていたというが、その後の略奪で宝石は削り取られて今はない。
 城壁は薄いレンガ色の赤砂岩を積み上げた頑強な造りで、総延長はおよそ2kmに達する。「レッド・フォート」という呼び名はこの壁の色に由来する。
 城中に入る時間がなく、周囲の見学のみ。2_4
 フラッシュの光に浮かび上がる多量の浮遊粉塵、ネズミが走り、犬がうろつき、ゴロ寝をしている人もいる、何でもありの、夜のプラットホーム。およそ日本の常識は通じない。
 20時40分発の寝台列車(2等車)でベナレス駅へ(約12時間)。夕食は列車内弁当。(列車泊)
                  (続く)

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本日(3/21)のメモ:
 1月に予定が決まっていた所用のため、本降りの雨の中、午前中から都心まで出かけてきました。電車は路線によって違いますが、6~7割の運転で、予想どおり時間がかかりました。節電のため車内の暖房は停止されていました。
 電車の週刊誌吊り広告の大見出しに、『巨大地震は予告されていた』というのがありました。やっぱり週刊誌。
 ”大東京”は一見、普段と変わらないように見えましたが、建物内は節電のため照明が減らされ、駅や街角には被災地への義援金を、と呼びかける若い人達の姿も目立ちました。

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