« 2011年2月 | トップページ | 2011年4月 »

2011年3月

2011年3月26日 (土)

皆さん、大丈夫ですか

 あちこちから悲鳴が届きます。昔、一緒に仕事をした、まだ現役で責任者の友人から、製品に必要なホウ酸が入手できなくなった。ホウ酸は福島原発事故の封じ込めに躍起になっている、水注水の際に添加するため、最優先で抑えられていて、流通はないという。
 別の友人からは、建屋の壁に亀裂が走り、電気も来なくて、という音信も。また、24時間連続運転しなければ、製品にならないという工場では、計画停電には対応できないとも。
 何をどうすれば、と具体案などは考えようもなく、ただ、大変だが頑張って、としか言いようのないのが辛いところ。
 全国で、もっと大変な状況が、普通になっていますが、本当に、健康に留意して頑張ってほしいものです。

 時間の合間に目にした記事です。当然ご承知でしょうが。ただ被災地では通信事情が失われたままのところもあり、避難所でも同様で、パソコン設置なども動き始めたようですが、心が痛みます。

 3/26記事:「乳児、水道水避けるより水分補給優先を」 小児科学会:
http://www.asahi.com/health/news/TKY201103250560.html

R00108631

 3/23記事:《東日本大震災》 チェルノブイリで治療したロバート・ゲイル博士会見https://aspara.asahi.com/blog/kochiraapital/entry/sWh2otqZz6?mid=10345WRy

R0010836

 
追記:
 文部科学省から、全国都道府県別に、1週間の放射線測定値の推移をグラフで、また、福島県については、モニタリングカーを用いた放射線モニタリングの結果が公表されています。
http://www.mext.go.jp/
埼玉県のデータ:Img014

 当然、一番測定値が高い値を示す福島県ですが、予測されたように県内で風向きによっても差が出ています。
 ともかく一刻も早く、新たな放射能漏れが発生しない対策の実行が待たれます。
http://www.mext.go.jp/a_menu/saigaijohou/syousai/1303747.htm
【参考】Img015

後日註記:
 記事中に参照記載したURLは既に掲載期限が過ぎて、いずれも削除されてアクセス出来ません。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2011年3月23日 (水)

北インドの旅(2011/3初旬)(その4)

北インドの旅4日目:

ベナレス見学後→カジュラホへ

◯再びガンジス川:
 早朝5:30発、再び手漕ぎボートに乗って日の出と共に行われる朝のガンジス川沐浴風景を見学。この日も曇天で日の出は見られなかった。
 異臭が漂うガートの階段のあちこちに大勢の巡礼者が横たわっている。ここで寝たのだ。牛がいて、犬もいる。汚物を踏んで滑らないよう、足元を懐中電灯で照らしながら水辺まで降りて、手漕ぎボートに乗る。
 まず上流に向かう。日の出前、照明の中にガンガー川畔の光景が浮かび上がり、昨夜のプージャ(お祈り)が脳みその裏に浮かぶ。
 知る人ぞ知る「久美子の家」も見える。岸辺の洗濯場で洗濯をする人々。昨日のお祈り場はやはり人で埋まっている。沐浴をする人々。沐浴前の信者にお祈りをさずける僧侶の姿。沐浴の光景を目の当たりにしながら、ボートは昨夜の火葬ガートに向かう。
 ガート岸辺には幾つもの遺灰の山がある。ここで遺灰は流されているのだ。Uターンしてボート乗り場に戻る。
 あらゆるものが流れている。諸行無常の流れがある。犬の死体も目にした。葬式仏教徒には、ここで沐浴する元気はない。恐れ多いことだ。ただ、ガイドのSさんには、沐浴をするのに宗教、信仰は関係ありません、と言われた。(なお余計なお世話かも知れないが、ガンガーの水は相当に汚染されている。日本の海水浴場とはわけが違う。やはり別世界なのだ。)421

 ヒンドゥーの教えでは、ガンガーの聖なる水で沐浴すればすべての罪は浄められる。また死者は河畔に積まれた薪で火葬にされ、その遺灰をガンガーに流せば輪廻のサイクルから開放されて解脱が得られて、ヒンドゥー教徒最高の幸福が得られるとされる。
 そのためこの町には年間何百万人もの巡礼者が訪れ、なかにはここで死ぬのを待つ人もいるという。
 異教徒がこのような文化を体験的に理解するには、しばらくこの地に滞在して、川畔の火葬を目の当たりにしながら、聖・俗すべてをのみ込んで流れるガンガーで沐浴三昧の生活を送ってみることが必要でしょう。
 お人好しで騙されやすい無節操のニンゲンは、火葬ガートでうろうろしている”案内人”に騙されて、薪の上に載せられ灰にならないように気をつけながら・・・。
 死生観、確立できていますか?、むろん、凡俗の私は×ですが。

ボートを下りてから、

○黄金寺院(ヴィシュワナート寺院):
 聖都ベナレスの中心地、そしてシヴァ神信仰の中心地として全巡礼が目指す寺院がヴィシュワナート寺院で、その開基は5世紀にさかのぼるが、12世紀以降、イスラム教徒によって何回か移転と破壊が行われ、モスクに改造されてしまった。
 そして現在ある金箔で覆われた黄金寺院は18世紀にモスクの一角に建立されたものである。
 ”異邦人”は、寺院を巡る細い路地を一巡するだけ。ここに行く前にカメラなどの持ち物は制限される。
 ガンガーで沐浴したヒンドゥー教徒は、その後必ず、ガンガーの水を入れた壺を手に持ち、ヴィシュワナート寺院に向かう。寺院内にはヒンドゥー教徒しか入ることが許されない。
 その奥まった細い路地を巡礼者に混じって通り抜けたが、その混雑、猥雑さは筆舌に尽くしがたい。

 観光後、ホテルに戻り朝食、後、バスでベナレス空港まで向かう途中で、
○ドゥルガー寺院に立ち寄り:4_2
 旧市街の南側にあるドゥルガーは、シヴァの妃である女神。中には入れない。赤色の寺院を道路角から建物越しの見学のみで終えてから空港へ向かう。
 ベナレス発11:15、空路カジュラホへ:
 カジュラホ着11:55、まずホテルへ、そこで昼食。

 ガンガーの冥界に迷い込んだような、言いようのない拘束感から解放され、現実の世界に戻ってきた、なにかほっとした安堵感があった。

午後カジュラホ市内観光:

【カジュラホ】:
 19世紀(1838年)に英国人が狩猟に来て、ジャングルに埋もれている遺跡を発見した。 1986年世界遺産に登録されたカジュラホはデリーの南東約500km、インド中部に位置する古都。今は人口16,000人ほどの小さな村にすぎないが、およそ9世紀から14世紀にかけて一帯を治めていたチャンデーラ朝の庇護のもとに、最盛期には85にのぼる石造寺院群が建立された。
 その後イスラム教による破壊の対象になり、現在そのうち25の寺院が保存されている。寺院群には、砂岩に刻まれたみごとな装飾彫刻が施されている。
 彫刻の対象は、主だった神々、半神、ミトゥナ(男女交合像)に分けられる。半神にはディクパラ(八方向の守護神)、アプサラ(天女、踊り子でもある)、スラスンダリ(美しい天女)、ヴィディヤダラ(天使)、ガンダルヴァ(天上の音楽家)などがいる。
 カジュラホが英国人によってはじめて記録に残された19世紀中頃から、寺院がエロティックな彫刻(ミトゥナ)で飾られているという、普通の概念では不自然とされることが、なぜカジュラホの寺院に存在するのかという疑問にいくつもの説が唱えられた。
 バート大尉は、「非情に淫らで不愉快なものである。」と述べ、「彼らヒンドゥー教徒の聖なる創造物を冒涜する最も下品な物である。」と続けている。
 カニンガム卿は、「気分が悪くなるほどわいせつだ。」と、エロティックな彫刻に付いて記録している。
 そして20世紀初頭にはなぜそのような彫刻が多数あるのか、美術歴史家たちが解釈をこころみた。
 今日のインドでは、少なくとも公共の場ではエロティックなものは注意深く排除されているが、ここには上記のように世界に有名なミトゥナ像(男女交合の官能的なレリーフ群)は、古代インドの性愛論書 『カーマスートラ』の教えとともに、豊穣祈願の思いが込めらたものとして認められているようだ。
 そして現在は、紛れもなく、外貨を稼ぐ有望な観光資源になっている。
 
 ただ有名になりすぎたミトゥナ像ではあるが、それは遺跡に残されたあまたの彫刻群の中で、ほんの1部(1/10)を占めるに過ぎない。寺院の建築に注がれたエネルギーと、そこに表現された躍動する生命感にあふれる彫刻群の創造力はやはりすばらしいものといえるだろう。

 なお、カジュラホ寺院群の見学は英、仏、独、そして日本語の4ヵ国語を操るという現地の専門ガイドによるものだったが、強いて言えば、彫刻群の解説は、ミトゥナ像に偏っていて、ミトゥナ像を期待している向きには、そうしないと、実際、大量の彫刻群の中から自分でそれらを見出すことはとても容易なことではないからだろう。
 ”皆さまの日本では48手、インドのカーマスートラでは84手。ここにはそのうち72手が彫刻されている。だからインドの人口は増えたのだ”、と笑わせてくれた。

 なお、ここには、ベナレスのガンガーで感じたようなスピリチュアルな空気はまったく感じられない。(KHAJURAHO ORCHHA Lustre.Roli 参照)

 
◯世界遺産:南の寺院群
 ドゥラデオ寺院(1100年~1150年頃)は聖なる花婿(シヴァ神をさして)という意味の寺院。ここの彫刻は装飾に凝っているが芸術的な深みに欠け、同じモチーフの繰返が多いということで見学は省略。
 そこから1km南のクダール川の少し南に位置しているチャトゥルプジャ寺院(1100年頃)へ。こちらにもスラスンダリと呼ばれる天上の美女の彫刻がたくさん見られるが、彫刻芸術が衰退期にあるときに建てられたため、その彫刻は型にはまっていて表情に乏しいという。
 それでもはじめて見る者には、彫刻群は印象的で美しいものだった。ミトゥナ像はここでは説明がなく、見なかった。Trm

 
◯世界遺産:東の寺院群
 寺院群の中で、この地域にあるヒンドゥー寺院はこじんまりしたものが多く、それぞれの場所も離れていて、観光客も少ない。
 一群になっているパルシュヴァナータ寺院、シャーンティナータ寺院、アーディナータ寺院はジャイナ教の寺院で、ここにはミトゥナ像は無いようだ。
 パルシュヴァナータ寺院(10世紀中頃)はチャンデーラ朝時代に建てられたジャイナ教寺院の中でもっとも壮麗で最大のものだ。
 神々のカップルやスラスンダリの見事な彫刻がある。外壁のアイラインを引くアプサラの姿はよく見られるモチーフだ。またダンスの前に、足首にベルの付いた足飾りをつけようとしているアプサラ、足に色をぬっている姿、さらにこの寺院にはいくつかの大変愛らしいスラスンダリの彫刻もある。
 伝統的な馬とライオンのコンビネーション、象とライオンというめずらしいコンビネーションのサルデューラも見られる。
 アーディナータ寺院(11世紀末)は、現在至聖所と入り口のホールだけが残っている。そのホールも後世に付け加えられたものだ。外壁にはスラスンダリや宙を舞うヴィディヤダラなどの彫刻がある。 
 ここではジャイナ教徒(裸足、白装束)が祈りを捧げる場面に出合うことがある。4

 夕食はホテルで。
                            (カジュラホ泊)

                    (続く)

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
今日(3/23)のメモ:
 今日は朝から、早く起きろとナマズ通信3連発。ゆらゆらではなく、ガタガタガタと振幅の短いヤツ。
 また、朝の計画停電は中止ということになりました。そして夕方8時前にもゆらゆらと。
 やっぱりな、と思うのですが、昨日そして一昨日の雨で、大気中に漂っていた放射性物質が水道水源にも入り、乳幼児には水道水を与えないようにという報道がありました。小さいお子さんをお持ちのお母さんたちは大変です。
 原発事故がなかなか沈静化に向かわないようだし、野菜農家などは風評被害に苦しめられています。
 こんな情勢の中、世情にそぐわないブログなどやはり遠慮したほうがいいと言う気もして、明日からしばらくお休みにすることに致しました。
 一刻も早く、何か明るい兆しが見えることを切望しながら。

 

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2011年3月22日 (火)

北インドの旅(2011/3初旬)(その3)

北インドの旅3日目:

ベナレス(バナーラス、ヴァーラーナスィーVaranasi):
 10時30分、ベナレス着(約2時間弱の延着で、これは良い方だということ)。後、ホテルに向かい朝食。
 ベナレスはヒマラヤの水を集めたガンガー(ガンジス川)が平原を流れ、シヴァ神の額にかかる三日月形に曲がるところにある町で、古代から息づいてきた都市としては世界最古の部類に入る。
 研究者らは、人々が町を造って住み付いたのは5000年か、それ以上も前のことだと考えている。ここは、はかなく過ぎゆく物事をよそに悠久の時が流れるヒンドゥー教最大の聖地、シヴァ神の聖都。
 その歴史の中でムスリムにより何度もの破壊を被ってきたが、現在見られるガートの風景は、ムガル帝国が弱体化し、ヒンドゥー教徒であるベナレスの藩王が実権を握る18世紀になってからのもの。
 ガンガーの岸辺を石造りに整備し、眺めのよい離宮を建てることはインド各地の王侯の夢だった。人々は今もガンガーで歯を磨き、沐浴し、洗濯し、ガートで火葬にした遺灰を流す、まさにヒンドゥー教徒にとっては、聖と俗が混在するところ。
 ただし、聖の存在は、ヒンドゥー教徒にしか感知できない。むろん葬式仏教徒には最初からはるかに遠い世界だが、ともかく異文化に触れるツアーのハイライト体験ゾーン。

 午前中に、バスでサールナート観光へ。
 サールナートは、ベナレスから北東約10kmにある、四大仏跡の一つ、ブッダ初転法輪の地。すなわちブッダ(釈尊)がはじめて説法をした所で、仏教徒にとっての重要な聖地である。ただ、インドでは仏教徒は少数派だが。 
 サールナートの大きな並木道を進むと、芝生が広がる中に、大きな仏塔(ストゥーパ)や寺院の建物が見えてくる。

 
◯バーラト・マーター寺院:
 ベナレス駅の近くにある。一見寺院に見えないが、立派なヒンドゥー寺院で、特徴的なのは、堂内に大きなインドの立体地図があり、これが祀られていること。(以下、画像はすべてクリックで拡大します。)Photo

 
◯考古学博物館:
 サールナート遺跡の外、バス道路が曲がる角に、サールナート遺跡からの出土品を収蔵する考古学博物館がある。ブッダの初転法輪像や、アショーカ王石柱の頂上にあったライオンの像などがある。
 入館に際してのセキュリティ・ーチェックは厳しく、カメラ等一切持ち込み禁止のため、写真はありません。

 
◯ムルガンドゥ・クティ寺院:スリランカ人が建てた寺院
 ダルマパル・ロードに出て東に進むと、花壇に囲まれた新しい寺院が見える。ここがムルガンドゥ・クティ寺院。中にはいると壁いっぱいにブッダの生涯を描いた壁画がある。(撮影は有料)
 戦前、日本人画家、野生司香雪(のうすこうせつ)が仕上げた作品である。なかなか見事なもの。こんなところにも日本とのつながりが見えた。Photo_2

 
◯ダメーク・ストゥーパ:
  ダメーク・ストゥーパ・モニュメントサイトの敷地内に入ると、ひときわ目立つ大きな仏塔がダメーク・ストゥーパである。6世紀に造られた高さ40mを超える巨大な仏塔。
 一部破壊されているが、塔の基部全体に施された細かな幾何学模様は綺麗に残っている。今もこの塔の周りを回って礼拝する修行者の姿を見ることができた。Photo_3

 
 トイレ休憩を兼ねてシルク店にてショッピング・タイム

 
 夕刻、サイクルリキシャに乗ってガンジス川(ガンガーGanga)へ:


◯ガンジス川:異教徒/異邦人にとっては異次元の世界
 【ヒンドゥー教の死生観】
 想像を超えた喧騒と混雑で、サイクルリキシャは動けなくなり、途中で下りてガンガーまで歩くことに。
 マスクを付けていながらも凄まじい粉塵に悩まされた。暮れなずむ川辺に着くと、あいにくの曇天で、ガンガーに沈む夕日の光景は見られない。
 岸辺には牛が寝そべり、犬がうろつき、物売りの子供たちがつきまとってくる。
 河岸から手漕ぎボートに乗って、ガンガーに漕ぎ出す。まず下流の火葬ガートに向かう。遠く、火葬ガートのあたり一帯から何カ所も立ち上がる、火葬ガートに積まれた薪の上で死体を荼毘に付す紅蓮の炎が否応なしに目に飛び込んで来て、衝撃的だ。(画像は広角の遠景画像を拡大してその一部を切り出したもの)。
 ボートは火炎と煙の立ち上る火葬ガート目前まで寄ってからUターンする。むろん、火葬ガートは撮影禁止だ。またとてもそんな雰囲気ではない。(画像はクリックで拡大します)1_31jpg

 
 火葬ガートからUターンしたボートは、ボート乗り場のすぐ上手の「お祈り場」に向かう。そこでは、日没時から、ヒンドゥー教礼拝僧によって執り行なわれるガンジス川お祈り風景(プージャー)が展開する。
 そしてまたも、どこか違和感を覚えずにはいられない情景にのみ込まれ、声もでない。
 ヒンドゥー教は単なる宗教ではない、生き方そのもの、いや生き方そのものとも違う、この生を通り抜けて、その向こう側にある何かを見つける、無限の教えの方法なのだ。

 ドラと太鼓が鳴り響き、礼拝僧が燭台の火を掲げて祈りを捧げる姿、また家族の幸せを願い、花が盛られ、中央に立てられたロウソクに灯がつけられた多数の蓮の葉や、手の込んだお供え物の皿が川に浮かべられ、流れゆく無数のロウソクの火に照らし出される夕闇の光景・・・、その光景は、独自の生命感にもとづく小宇宙空間を醸しだしている。
 死生観を異にする、さらに確固たる死生観を持てない凡庸の”異邦人”にとっては、はじめて体験する、なんとも名状しがたい異文化の一大スペクタクルだ。
 そのスペクタクルがクライマックスを迎える頃には、あたり一面、川面は手漕ぎボートで埋め尽くされた。むろん、乗っているのはすべて異教徒/異邦人。Photo_4

 
 ここベナレスで、インドの母なる大河ガンガーの岸辺に連なっているのが「ガート」。ガートとは、岸辺から階段になって河水に没している堤のことで、沐浴する場として使われているが、ヒンドゥー教徒の火葬場になっているガートもある。
 旧市街の河の西岸に沿って、108のガートが並んでいて、1と108のガートが火葬ガートで、2~107が沐浴のためのガート。
 数あるガートの中でもここに来る巡礼者の聖地になっているのは、北からワルナーサンガム、パンチサンガー、マニカルニカー、ダシャーシュワメード、そしてアッスィーの5ヵ所。
 中でも市の中心にあり、多くの人で賑わうのはダシャーシュワメード・ガート。そしてまた少し北にあるマニカルニカー・ガートで、ここは火葬場のガートであり、24時間火葬の煙が途絶えることがない。
 布にくるまれ、竹の担架に乗せられてはるばる運ばれてきた死者はこのガートで火葬にされその形を失う。死者は、まずシヴァ神を祀るターラケーシュワル寺院に安置される。死者の耳にシヴァ神が救済の真言ターラカ・マントラを囁くことで、生前いかなる大罪を犯したものでも解脱できるとされる。
 そして死者はガンジスの水に浸され、火葬の薪の上に載せられると、喪主(長男)が火をつける。遺灰はすべてガンガーに流され、あとには何一つ残らない。
 一連の火葬場の仕事はすべて「ドゥム・カースト」階層の者が職業として行うことになっていて、他のものは手出ししてはいけないのだ。

                                (ベナレス泊)
                   (続く)

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
本日(3/22)のメモ:
 今日は計画停電がありました。午後1時から4時まで。停電の始まる前の午前中に、今日の食料を買いにスーパーへ。
 買ったものは、明日からの食パン1斤、地震後はじめての牛乳1パック、豆腐。午後5時過ぎ、お米がないことに気がついて再びスーパーへ。特設売り場に残っていました。
 
昨日からの雨で寒く、日中も外気温は6~7℃程。被災地の皆さんが心配です。停電中なすこともないので、着込んで小雨模様の街中にウオーキングに。交通信号も消えていて、交差点ではおまわりさんの姿が。
 相変わらず、国道沿いのガソリンスタンドは全部「売り切れ」の札を下げたまま。
今日は午後になってから震度3~2のナマズ通信が5回も。ゆらゆらゆらと繰り返してよく揺れました。

 

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2011年3月21日 (月)

北インドの旅(2011/3初旬)(その2)

北インドの旅:1~2日目

 今回ツアーのインド現地ガイドSさんは、デリー大学でインド歴史学を専攻したマスターで、現在、本職は、カレッジの教授。デリー大学で日本語も習ったが、使わなければ忘れるし上達もしないから、その場として、余裕時間がとれる時だけ、日本語ツアー・ガイドのアルバイトということ。
 なおさらに、インドで唯一の、大使館員、政治家に対する公式ガイド免許を持つ、スーパー・ガイド。
 過去、日本の防衛大臣がインド政府を訪問された時にも、ガイドを勤められました。
 そのスーパー・ガイドの言われるには、「皆さんの日本のインド・ガイドブックには実際、色々な間違いがいっぱいあります」、とバッサリ。

 本文は、ガイドブックを参照しましたが、Sさんのガイドによる修正もあります。また勝手な思い込みなどもありますが読み飛ばして下さい。やはり自分の目で確かめて納得するのが一番で、百聞は一見にしかず、です。

1日目:成田からデリーへ(所要時間約10時間)
 当日は晴天で、ヒマラヤ山脈が見えると機長の機内放送があり、チョモランマ(エベレスト)も遥か遠くでしたが視認できました。
 デリー空港を降りたところで、出迎えのガイドSさんから歓迎・祝福のマリーゴールドの花輪を首からかけてもらい、宿泊ホテルへ。
                              (デリー泊)

 
2日目:デリー観光、(夜、寝台列車でベナレスへ移動)
 午前:
◯世界遺産:クトゥブ・ミナール(13世紀初頭、イスラム王朝が建設したモスクなどの集合体):
 1993年、クトゥブ・ミナールとその建造物群が世界遺産に登録された。デリー観光で見どころの一つ。
 ニューデリーの南郊外約15kmの平原にそびえ立つ高さ72.5mの塔はイスラム最初の記念碑。以前は100mあったが、飛行機事故で現在の高さになった。基部の直径14.44m、5層のうち下3層は赤砂岩、その上は大理石と砂岩で築かれ、コーランの文句を図案化した彫刻が外壁に刻まれている。
 奴隷王朝Slave Dynastyのスルタン、クトゥブウッディーン・アイバクが、ヒンドゥー教徒に対する勝利を記念して建てたもので、アイバクは在位4年(塔は未完)でこの世を去った。そののち、後継者が増築して現在の姿になったという。
 以前は内部のらせん階段を伝って登れるようになっていたが、転落事故があって以来、登塔が禁止されている。
 なお、塔のすぐ脇の「クワットゥル・イスラーム・モスク」が美しい。インドに初めて造られたモスクと言われており、破壊したヒンドゥー寺院の石材を使って建立したものである。柱1本1本に施された細かな彫刻が見どころである。
 敷地のすぐ北に、アラーイーの塔の基部が巨大なチョコレートケーキのように残っている。クトゥブ・ミナールの塔より高い塔を建てようと計画されたが、王の死により実現しなかったという。
 また敷地内にはモスクとイスラムの教えを学ぶ学校が一体になった建物もある。
 樹木としてはニームの木がたくさんある。この小枝を今でも歯磨きに使っている人々を街中でも見かけた。21

 
 昼食はタンドリー(釜)料理。

 
◯インド門:
 インド門はニューデリーの中心コンノート・ブレイスの東南2.5kmにある高さ42mの門。第1次世界大戦で戦死したインド兵士の慰霊碑で、インドは戦後の独立を条件にイギリスに協力して参戦したが、大きな犠牲と引換の独立は実現しなかった。壁面には戦没者1万3500人の名前が刻まれている。
 あいにくの曇り空。霧なのか埃なのか、霞む門。2_81_2

 
◯世界遺産:フマユーン廟:
 1993年、世界遺産登録。民衆の墓は大地に帰り(もっともヒンドゥー教徒は遺灰のすべてをガンガーに流すためには墓は持たないが)、皇帝の墓は観光地になって、国家財政に貢献している!
 5000年の歴史と日本の9倍に近い国土と豊かな自然を持つインド。この国の観光の主体は「ムガル帝国の歴史」をたどる旅と言っても過言ではない。
 ムガル帝国は1526年、アフガニスタンからティムール(モンゴル)の血を引くバーブルが侵入し、デリーの新しい支配者になった。これがムガル帝国の始まりである。
 初代皇帝バーブルはローディ朝を破ってデリーの新しい支配者になったが、わずか4年後に亡くなった。
 そして第2代皇帝がフマユーンである。フマユーンは1540年ビハールの地を従えたパシュトゥーン人(アフガン人)の将軍で、のちにシェール・シャーと名乗るスール族のシェール・ハンに大敗し、これ以降インド北部の君主の座を奪われて、ペルシアに亡命し、流浪の生活をおくった。
 やがてイラン(ペルシア)のサファヴィー朝の支援を受け、シェール・シャー死後の1555年にはアグラとデリーを奪回して北インドの再征服に成功したが、翌1556年に事故死してしまった。
 そしてその廟(フマユーン廟)は1565年に、妃ハージ・ベグムによって建造されたものである。
 庭園の中に廟を置く形式で、後にその影響を受けて建てられた有名な「タージ・マハル」に比べれば小さいながらも、インド・イスラーム建築の傑作とされている。
 中央にドームをいただく左右対象の建築は安定感があり、赤砂岩に白大理石をはめ込んだ色のコントラストも綺麗。2_3

 
◯ラージ・ガート:
 インド独立の父・マハトマ・ガンディが火葬されたガートに造られた大理石の記念碑。ヒンドゥー教の習慣に従って遺灰はガンジス川(ガンガー)に流された。
 『ガンジー自伝』はいつ読んでも感動的です。24

 
◯世界遺産:ラール・キラー(別名レッド・フォート):
 ムガル帝国の赤い砦、ラール・キラー。この広大な城は1639~48年、アグラからデリーに都を移した第5代皇帝シャー・ジャハーンによって建設された。その後セポイの乱の際に多大な被害を受けたが、城内にはムガル時代の面影が色濃く残っている。
 第5代皇帝シャー・ジャハーンの王座には、サファイヤやルビー、エメラルドなど世界中から集めた宝石が埋め込まれて燦然と輝いていたというが、その後の略奪で宝石は削り取られて今はない。
 城壁は薄いレンガ色の赤砂岩を積み上げた頑強な造りで、総延長はおよそ2kmに達する。「レッド・フォート」という呼び名はこの壁の色に由来する。
 城中に入る時間がなく、周囲の見学のみ。2_4
 フラッシュの光に浮かび上がる多量の浮遊粉塵、ネズミが走り、犬がうろつき、ゴロ寝をしている人もいる、何でもありの、夜のプラットホーム。およそ日本の常識は通じない。
 20時40分発の寝台列車(2等車)でベナレス駅へ(約12時間)。夕食は列車内弁当。(列車泊)
                  (続く)

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
本日(3/21)のメモ:
 1月に予定が決まっていた所用のため、本降りの雨の中、午前中から都心まで出かけてきました。電車は路線によって違いますが、6~7割の運転で、予想どおり時間がかかりました。節電のため車内の暖房は停止されていました。
 電車の週刊誌吊り広告の大見出しに、『巨大地震は予告されていた』というのがありました。やっぱり週刊誌。
 ”大東京”は一見、普段と変わらないように見えましたが、建物内は節電のため照明が減らされ、駅や街角には被災地への義援金を、と呼びかける若い人達の姿も目立ちました。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2011年3月20日 (日)

北インドの旅(2011/3初旬)(その1)

[前置き]:
 先の3.11東日本巨大地震が発生する直前に、はじめての北インドの旅から帰ってきました。
 その後、そんなことは、頭の中からぶっ飛んでしまった日々になりました。
 巨大地震の傷跡は、未だ正確な全貌が分からないほど甚大で、その復興には長期戦を覚悟して将来を見据え、立ち向かわなければなりません。この決意は常にしっかり胸に秘めていたいと思います。

 この時期、脳天気なブログを書くことに気後れはするのですが、重苦しさを1時でも気分転換してもらえたらと、アップすることに致しました。時宜にそぐわないテーマも一部含みますが、生きるということを見つめ直す縁にもなるかと。

 出かける前には、チュニジアに端を発した反体制、民主化運動のうねりが、中東域だけにとどまらず、アジアの大国にまで波及する様相を呈して、その後の予断を許さない情勢の中でした。
 グローバル化した現代の高度情報化社会で、民衆を情報から完全に遮断することの難しさもまざまざと見せつけられました。
 まだ依然としてリビアやサウジアラビア、バーレーンは騒動の最中なのです。世界は急速に変貌していきます。
 世界秩序は、大国による一極支配から多極化、無極化へ、さらに混沌に向かうのでしょうか。

 世界には、例えば、グローバル化した先進的文化文明に遅れるな、という文化もあれば、少数派ではありますが、その対極には、あえて物質的所産たる文明を拒むという文化も存在しています。
 人の生き様、行動様式、価値観を規定する文化は様々で、その多様な異文化間の相互理解は、頭で考えるほど容易なことではなさそうです。
 これまで文化摩擦、宗教対立(宗教や信仰は人類の作り出したあらゆる主義・主張のなかで最も強固な独自性・排他性を有し、それゆえ必然的に相互受容不可能な主導権、権力を競い合う事になるのでしょうか)、文明の衝突、等々、様々なキーワードで世界が語られてきましたが、世界人類共通の文化、文明はこの先に見えてくるのでしょうか。
 と、大上段にかまえたところから、一気にトーンダウンして、『インド』です。

 インドは、親日的な、南アジア随一、日本の約9倍の面積と、世界第2位の人口を持つ大国で、近年経済発展もめざましいものがあります。その市場に出遅れた日本経済界も、インド最大の財閥タタ・グループと手を組んで、出遅れの巻き返しに出ています。
 最近の国連推計値で人口12億1400万人という国民は、多様な民族、言語、宗教によって構成されています。
 そのなかで、ヒンドゥー教徒が最も多く80%を超え、そのため、ヒンドゥー教にまつわる身分制度のカースト制度は、独立後の新憲法では禁止され、法的には存在しないことになっていますが、現実には今なおその影響は残っていて、複雑な身分制社会を形成している様を見聞きします。
 ヒンドゥー教の人々の間では、牛や猿は神聖な動物として大切にされ、また、仏教よりも「輪廻転生」の思想が徹底していて、聖なる川、ガンジス川(ガンガー)で身を清め、来世の存在を信じてガンジス川のほとりで火葬し、灰はガンジス川に流す、という文化が今もしっかりと伝承され、固く守られています。

 『インドへの道』(1984年)という映画がありました。私は観ていませんが、イギリスの文学者E・Mフォースターの小説を映画化した作品です。
 小説は、第1次世界大戦後の物語で、イギリスの若い女性がインドの古代遺跡(今日は世界遺産となっている有名なカジュラホの建造物群)で目にしたミトゥナ像(男女交合の像)に衝撃をうけ、そのカルチャーショックで被害妄想に陥る、という展開で、現代の世界社会でも絶えることのない異文化との摩擦、そして融和に関するテーマを提起した名作です。

 だいぶ昔のこと、1960年代から欧米でバックパッカーなるものが現れはじめ、後を追うようにして日本の若者の間にもこの“旅装“がはやった時代がありました。そして、そのような世代にバイブルとして読まれた『深夜特急』〈第二便〉ペルシャの風(沢木耕太郎 著)の中に、インド、ベナレスのガンジス川のほとりで、遭遇した一つの異文化体験が語られていました。
 “牛がうろつき、鳥が飛びかい、その間にも(死体が)焼かれ、流され、一体ずつ死体が処理されていく。無数の死に取り囲まれているうちに、しだいに私の頭の中は真っ白になり・・・” と。
 むろん私はバックパッキングなどの趣味も余裕もありませんでしたが、この本だけは大変な驚きを持って読んだものでした。

 そしてまた話が飛びますが、こちらも、もう古い本の『鳥葬の国』(川喜田二郎著:1958年に京都大学生物誌研究会と日本民族協会の後援のもとに行なわれた探険の記録)を読んで、同様に世界の不思議を覚えたものです。
 昨年冬訪れたチベットで、今でもチベット仏教の信徒はその教えに基づいて、死体は刻んでハゲワシなどに施す鳥葬も行っていると、現地ガイドから聴きましたが、その当時の鳥葬の様子がフィールドワーク記録の一つとして記述されています。

 時を隔てて現在の日本には“発展したお葬式文化”があります。これを、ガンジス川畔の葬送や、チベットの鳥葬を文化とする側から観察すれば、なかなか理解が難しい異文化と映るのではないでしょうか。

 かくして、発展著しい最新のインド情報と共に、頭の隅には今も5000年の歴史を秘めて悠久の時間が流れる、多様性の光と混沌の暗闇が共存する国インドという漠然としたイメージもありました。
 そして、たまたま3月初旬、コースにベナレスのガンジス川畔が組込まれた北インドツアーがありましたので、はじめてインドの旅に行ってきたものです。
 僅かな日数の”観光”では、まんじゅうの皮の一部を見ただけで、中のアンコなどは見えません。まさに『群盲、象をなでる』(100年ほど前に、インドの宗教家ラーマクリシュナ師によって語られた寓話の一つ)そのものですが、ともかく、その異文化に触れたささやかな体験記録です。

概略:Photo_2

 日航機の窓から遠望できた地球の皺、ヒマラヤ山脈
5jpgcc

                                      (続く)

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2011年3月19日 (土)

前進を

 巨大震災の影響で、近くのガソリンスタンドはどこも売り切れの札がぶら下がったままです。R0010757

 しかし食品スーパーの棚には、今日からお米がもどってきました。その他まだまだおかしな雰囲気がいっぱいあります。

 原発事故がなかなか押さえ込めず、不愉快な風評被害も出はじめていたり、まだ被災者に援助の手が届きにくいなど一連のニュース報道を見聞きするにつけ、なかなか重い気持ちは変わり様がありません。
 しかし本日は予定されていた計画停電が中止になったおかげで、図書館が開くというので、引きこもり気分から抜け出すために、パソコンを持って外出してきました。
 少しずつ、新聞やTV、ラジオ番組にも通常の部分が戻ってきたようです。ただ、ちょうどこの記事を書いていた午後7時前、今日は無いかと思っていたのに、震度4がやって来ました。もう慣れましたが。

 亡くなられた方々への鎮魂の祈りと、被爆の危険をかえりみず、昼夜分かたず原発事故最前線で事故処理に従事されている作業員皆さまのご苦労をしのび、被災地には一刻もはやく充分な援助の手が届くよう祈りながら、明日から少し気分を切り替えて、何かできることがあればと思います。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2011年3月18日 (金)

ハクモクレン、ジンチョウゲ

 昨日、そして今朝と続いて屋外の水鉢に薄氷が張りました。R0010755

 
 寒さや不自由、そして重なる心労に耐えていらっしゃる被災地の方々、どうかがんばってください。
 
 人々の災難は知らぬげに、ハクモクレンの蕾はだいぶ膨らんで、R0010750

 
 花粉症で嗅覚の衰えた鼻には匂いもせず、沈丁花が咲いています。R0010756

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2011年3月17日 (木)

避難者受け入れ

 16日の報道によれば、「先の巨大地震で放射能漏れを起こした福島第一・第二原子力発電所周辺から避難した住民は、埼玉県内にも逃れてきた。避難者を10万人超と見込む福島県は全国知事会に協力を要請。埼玉県は16日、各市町村に、避難所を確保するよう緊急要請を行う一方、さいたま市のさいたまスーパーアリーナに一時避難所を設置した」、とありました。
 埼玉県の東部に位置するわが町でも、要請を受けて検討に入ったらしいのですが、まだ町のホームページには具体的な情報は何も記載がありません。
 町の生涯学習センターと併設の図書館に電話をすると、本日は休館にするという自動メーッセージが流れるだけです。ごまめの歯ぎしりです。
 そのせいもあってか、また揺れています(pm17::26)Blg2011316

 
追記:19:40
 町のホームページにやっと記事がアップされました。

富岡町の避難住民を受け入れ
 町民の皆様にお知らせします。
 昨年11月に友好都市協定を締結した福島県富岡町遠藤町長からの要請により、近隣の市町にも協力をいただき、被災住民を受け入れすることになりました。
 当町では、浴室設備のある2ヵ所の施設に受け入れるもので、約110人を予定。
 富岡町より大型バス等にて、本日19時頃、生涯学習センターに到着し、各施設に移動する予定です。
 ついては、今後町民の皆様に、日常生活物品など救援物資のご提供やボランティアの募集を行いますので、ご協力をお願い申し上げます。(更新日:2011年03月17日)

 できる限りお役に立てればと思います。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2011年3月15日 (火)

タネツケバナ

 最寄りのゆうちょ銀行まで、東北関東大震災義援金の振り込みに行った帰りに、田圃道を遠回りしてきました。
 曇り空で、肌寒い風が吹き、オオイヌノフグリは全部花弁を閉じていて、タネツケバナが白い4弁花を開いていました。

 (ここまで書いたところでまた、ゆらゆらと家が揺れます)

R0010742_2

R0010741

 田植えの準備に種籾を水に漬ける頃、花が咲くことからつけられた名前です。

 
 友人から届いたメールに次の動画が紹介されていました。震災にひるむな、負けるなと。下記URL、ご覧ください。
 http://www.youtube.com/watch?v=IxUsgXCaVtc

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2011年3月14日 (月)

計画停電、ゴイサギ幼鳥

 日暮れ時になって、防災有線放送で、18:20~22:00まで計画停電実施になるとアナウンスが流れました。

 昼過ぎ、所用で外出して、ついでに買い物をと、ホームセンターに立ち寄ってみると、乾電池はすべて売り切れになっていました。地震で落下して壊れた和室の蛍光灯を買って帰ろうかと思いましたが、今も止むことなく揺れ続ける現状では、やめたほうがいいなと、やめにしました。
 食品スーパーに回って、明日の食パンだけ買って帰りました。容量の大きい水や飲料のペットボトルはすべて売り切れになっていました。(自宅にはだいぶ前にダンボール単位で買った備蓄用の”天然水”がありますので当面必要ありませんが)。

 団地の前を通りかかると、手の届き等なところに、どういうわけかゴイサギの幼鳥が一羽、ぽつねんと佇んでいました。R0010740

R0010738

 避難所で不自由な生活を強いられている被災者の方々のご苦労を偲びながら、ジャンパーを着込んで、しばし懐中電灯でこれまでの生活態度を反省する時間が持てそうです。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2011年3月13日 (日)

頑張らなくては

 M 9.0という、東北関東大震災。力を合わせて克服していかなくてはなりませんね。R0010735_2

 
 庭のサンシュユは何事もないように、春になったからと、線香花火のような黄色い花を開いています。R0010736

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2011年3月12日 (土)

春に背いて・・・

 専門家も想定外であったというM8.8の超巨大地震。つけっ放しのテレビから刻々伝えられる惨状は本当に胸塞がる思いです。
 津波、火災、そして原発災害、ただ被害が最小限にとどまってほしいと祈るしかない、このもどかしさよ。(17:30記)312img_5384

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2011年3月11日 (金)

2011.3.11宮城県沖を震源とする大地震

 11日午後2時46分ごろ、宮城県沖を震源とする大きな地震が発生しました。震源は三陸沖深さ10キロ、地震の規模はマグニチュード8.8で、国内で観測史上最大規模。

 自宅(埼玉県東部)では震度5強の揺れ。地震発生時、リビングで立っていられなくて、そのうち小物が落ちてきたり、洋服掛け、スチールラックなどが倒れてきました。R0010717jpgtrm

R0010720

 和室の吊り下げ蛍光灯が天井から器具ごとはずれて落下して壊れました。壁掛け時計はクッションの上に落ちて大丈夫でした。

 余談ながら、当時、妻はたまたま隣町(隣町では震度6弱)の図書館に本を返しに行き、地震に遭遇しました。揺れが収まるのを待って帰宅してきました。(携帯で撮影した当時の館内の様子)2011311nec_0364

 
 外に出て見ると、屋外のメダカ水槽の水が半分以上飛び出していました。R0010721

 
 このブログを書いている時も余震が続き、かなりの揺れが続いています。
 震源に近いところから、津波や建物倒壊などによって人命が失われているという情報が続々と伝えられています。R0010728

 特に人命にかかわる災害が最小限に抑えられるよう祈るばかりです。(pm5:10記)

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2011年3月10日 (木)

カツラ、冬芽と葉痕・維管束痕

 公園に植栽されているカツラの樹を散歩のついでに撮ってきました。
冬芽は水滴形~円錐形で、赤く、つやがあってきれいです。仮頂芽が2個並びます。芽鱗は2枚です。R0010319_5

 
 葉痕は小さいものですが、V字形。維管束痕は3個で、合わせた表情としては色黒で、眦の上がった鋭い印象の顔つきに見えます。R0010319

R0010319_3

 やがて芽吹いて柔らかな緑がきれいでしょう。

カツラ:
 カツラ科カツラ属の落葉高木、雌雄異株。
日本各地のブナ林域や渓流などに自生が多く見られる。
 街路樹や公園樹にも利用されている。高さは30mほど、樹木の直径は2mほどにもなり、各地で天然記念物に指定された古木、銘木が多い。
 材は香りがよく耐久性があるので、建築、家具、鉛筆などの材料に、また碁盤や将棋盤にも使われる。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2011年3月 9日 (水)

ヤマグワ(別名クワ)の冬芽と葉痕・維管束痕;ナガミヒナゲシ

ヤマグワ:
 堤防の斜面にクワの木が1株自生しています。切り倒されないで残ったようです。通りがかりに、はっきりした葉痕が目立ちましたので覗いて見ました。

 冬芽は水滴形で淡い褐色。葉痕は隆起しています。維管束痕は輪状です。R0010300trm

 その昔、養蚕が盛んであった時代には、カイコの餌としてあちこちの畑に植栽されていましたが、現在は限定された地域でしか見られません。雌雄異株で4月頃に緑色の球状の花序を形成し、淡黄緑色の花弁がない裸花が尾状について垂れ下がります。
 童謡『赤とんぼ』に、♪♪山の畑の 桑の実を 小籠(こかご)に摘んだは まぼろしか♪♪ と歌われた桑の実は、7月頃には赤色から黒紫色に熟して食べることができ、子供のおやつになったもので、懐かしいです。

 
ナガミヒナゲシ:
 雑草が一気に生えてきた中に、それと見てすぐわかるナガミヒナゲシも一株、負けずに葉を広げていました。春ですね。R0010355

R0010356

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2011年3月 8日 (火)

ダイサギ/チュウサギ(主に夏鳥)、コサギ(留鳥)

ダイサギ:コウノトリ目サギ科
 主として夏鳥で、時に漂鳥、一部地域では冬鳥。
 全長90cm
近郊にも不定期にやって来ます。たいてい単独で、用水路に下りてじっと水中を見つめているという情景を見かけます。くちばしの先端にわずかながら黒色が残っています。チュウサギとの区別がこの写真だけでは難しいです。また頭部の鮮明なアップが撮れれば良いのですが・・・,チュウサギかも知れませんがいちおう、ダイサギとしました。

 水田、湿地、河口、干潟、浅い池沼などで餌をあさる。浅い水の中を静かに歩いてカエル、ザリガニなどを取ったり、じっと立って待ち、近づいた魚をすばやくくわえる。
 チュウサギ、コサギと比較してひとまわり大きく、くちばしのライン(口角)が目の下よりもさらに長く続いている。P2220003cctrm

 
 口角は目の下より長いように見えます。2r

 
 長~い首です。P2220009

 
チュウサギ(またはダイサギ?):コウノトリ目サギ科
 主として夏鳥、全長約70cm
水路に1羽だけ下りていました。単独でいる時にはチュウサギなのかダイサギなのか分かりません。”鮮明な顔写真”が撮れれば分かりやすいのですが・・・

 チュウサギは、ダイサギやコサギのように、干潟で休んだり餌をとったりすることがあまりない。平地の林にコロニーを作り、他のサギ類と混ざった群れで繁殖する。
 ダイサギより小柄で、目の下のライン(口角)は目の下あたりで止まっている。
なおコサギは足の指が黄色で、くちばしは黒、またチュウサギ、ダイサギともに、くちばしの色は季節で変化して、夏は黒、冬は黄色になるが、チュウサギは黄色のくちばしの先端部分に黒色が残る(どのくらい?)、とややこしいです。
121p1210024

 
コサギ:コウノトリ目サギ科
 留鳥、全長約61cm
夏に比べ、冬の間はあまり多くはありませんが時々近くの水路にやってきます。道路脇の田圃に降りたところをワンショット。すぐに飛んでいきました。

 水田、湿地、湖沼、川、干潟などでえさをあさる。浅い水の中を歩いて、魚、ザリガニなどをさがし、追いかけて捉えたり、片足で水中を探るように器用に動かして獲物を追い出して捕まえたりする。
 コサギは名前のとおりサギの仲間では一番小さく、足の指が黄色であることが他のシラサギと異なる特徴。P2230018_21

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2011年3月 7日 (月)

キセキレイとハクセキレイ(留鳥)

キセキレイ:スズメ目セキレイ科
 留鳥、全長約20cm
平地にも山地の渓流にも、そして現在は市街地にも進出しているセキレイたち。冬の水田にいたキセキレイはいつもカメラ目線です。

 平地から山地の川、湖沼、池などにすみ、夏には標高2000m以上の山にいることもある。地上や水辺を活発に歩いて昆虫やクモなどを食べる。
 市街地にもすみ、道路にもおりることがある。幅の狭い流れや山間の渓流にもいて、岩の間を歩く。立ち止まったときや飛んでおりたときには、尾を頻繁に上下に振る。大きな波形をえがいてチチン、チチンと鳴きながら飛ぶ。
 白い眉斑、灰色の上面、三列風切の白い羽縁、飛んだときの黄色い腰と翼の細い白線が特徴。P2160112

P2160097

P2160100

P2160108

 
ハクセキレイ:スズメ目セキレイ科
 留鳥、全長約21cm
自然公園内の田圃にいました。身近な環境に年中います。キセキレイよりずっとたくさん住んでいます。
 
 海岸、河川や、水田など、低地の水辺にすみ、地上を歩いて昆虫などをあさる。ときには飛び立ってゆっくり飛ぶ昆虫を捕らえることもある。大きな波形を描いて飛びながらチチッ、チチチッ、と鳴く。3r

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2011年3月 6日 (日)

ヒヨドリ(留鳥/漂鳥)

 今日は啓蟄。虫や爬虫類、両生類も春の気配を察知してモゾモゾ動き始める時期になりました。
 すぐというわけではありませんが、秋冬の間、里に下りてきた鳥たちも、木々が芽吹いて若葉が萌え昆虫類の活動も始まるなどして山に餌が増えてくる頃になれば、山地にも移動していくでしょう。

ヒヨドリ:スズメ目ヒヨドリ科
 留鳥、漂鳥、全長約27.5cm
冬から早春、住宅街を通り抜けると時に庭に立ち寄っていくメジロとシジュウカラにと、リンゴを庭木に差しておくと、真っ先にやってきて食い散らしていく闖入者ヒヨドリ。
 遠慮というものを知らないようで、この時ばかりは他の小鳥は寄り付きません。桜の時期には花散らしをするのも決まって、甘いもの好きで狼藉者のヒヨドリ。

 低地から山地の林に住み、季節によっては市街地の公園や集落の林にも多い。樹上生活が主で、昆虫や木の実をよく食べるが、ツバキ、ウメ、モモの花の蜜を吸い、秋には熟したカキに集まる。またコブシなどの花弁や畑のキャベツをちぎって食べる。ピーヨ、ピーヨと鳴いてやかましい。R0010219

R0010215

R0010221

R0010212

R0010218

 ハクモクレンが開く前に、蕾の下部をかじって穴をあけ、花を台無しにする悪者です。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2011年3月 5日 (土)

カワセミ(留鳥)

カワセミ:ブッポウソウ目カワセミ科
 留鳥、全長約17cm
自然公園の池に人気者のカワセミがやってきます。やってきたのはオスのようです。くちばしの上下とも黒いのがオス、下の部分が赤いのがメス。
 散歩コースの用水沿いにも生息しています。

 川、湖沼、池など、水のある所に留鳥としてすみ、繁殖期以外には多くは1羽ずつ生活している。水の上の枝、草の茎、水中に立っている杭、水中の岩などにとまって魚を狙い、水中に急降下して捕らえる。空中で停空飛翔してから急降下する場合もある。
 チーと鋭く鳴いて水面上を低く飛ぶ。土の土手に穴を掘り巣作りする。P2160067_2

P2160067_3

 
 この”碧い宝石”シーンは残念ながらひどいピンぼけに。P2160067_4

P2160067_5

P21600676

 用水沿いでは、夏は葉の茂みがじゃまになり、冬枯れのシーズンが観察適期です。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2011年3月 4日 (金)

モズ(漂鳥)

モズ:スズメ目モズ科
 漂鳥、全長約20cm
自然公園の林地や付近の用水沿いの木立で見たものです。自宅近くでも良く見かけます。 
 留守中に庭にも来ているようです。

 北日本や積雪地のものは、冬、暖地へ移動する。秋から春にかけて低地の集落の林、低木のある川原や農耕地、公園、果樹園などに生息し、秋冬には1羽ずつ縄張りをもって生活する。
 縄張りを決める秋から初冬にかけて木の枝、電線でキィーキイキイキイと高鳴きをする。他の鳥の鳴きまねをすることがある。
 また、モズはトカゲやカエル、昆虫などの小動物を有刺鉄線や木の枝に突き刺しておく習性がありこれを「はやにえ」というが、何のために行うのか定説はないそうです。P2160081

P2160086

P2170169

P2170171

P2230014

 くちばしの先端がカギ爪状になっているところが、小さくても猛禽の風貌でしょう。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2011年3月 3日 (木)

アオジ(漂鳥)

アオジ:スズメ目ホオジロ科
 漂鳥、全長16cm
自然公園内の田圃に群れていました。人を恐れる様子がありません。どんどん近寄って道を横切り、手の届きそうなところまで餌をついばみながら近寄り、通りすぎていきます。自宅付近では目にすることはありません。

 繁殖期には本州中部の山地や北海道の平地から山地の明るい林や林縁に生息する。冬季には本州中部以南の平地や低山の樹林や藪に移動して、地上で植物の種子などをあさる。市街地の庭や公園にも来る。P2160060

R0010196

R0010196_2

R0010243

R0010247

 トコトコトコと、目の前を通りすぎていきました。

| | コメント (2) | トラックバック (0)

2011年3月 2日 (水)

ルリビタキ(漂鳥)

ルリビタキ:スズメ目ツグミ科
 漂鳥、全長約14cm
”ヒタキ”の名前ですが、ツグミの仲間です。夏の山地で道案内をするように前を飛んでいくのを見たことがあります。今回は平地の自然公園の林縁草地でみかけたものです。

 繁殖期には四国や本州の亜高山帯に生息するが、ちょっとした山地でも見られることがある。下生えのある林にすみ、地表近くで昆虫などをとっているが、さえずるときには木の梢にとまる。
 冬場は平地にも出現する。林地の低木の枝、切株などにも姿を表す。林内の下層部と林床部で採餌する。虫を見つけると飛び立って捕らえる。またコシアブラなどの小型の果実も好んで食べる。
 雄は頭の上と背中、尾が青色である。眉斑が白っぽい。脇(わき)は橙色。脇以外の下面は白い。嘴は黒く、足はピンク色を帯びた黒色。雌は背中が褐色で脇(わき)が橙色、尾は青い。R0010229

R0010234

R0010235
 逆光で、本来のきれいな青色が撮れませんでした。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2011年3月 1日 (火)

ツグミ(冬鳥)、キジバト;シジュウカラ(留鳥)

 3月です。草木萌え動く春になりました。スギ花粉飛散ピークもやってくる悲惨な季節でもあります。
 そんなことには無関係な野鳥たちです。

ツグミ:スズメ目ヒタキ科
 冬鳥、全長約24cm
この冬はなぜか他の鳥の姿が少ないため田圃や原っぱ、公園など、どこに行ってもツグミばかりが目につくようです。

 秋、大きな群れで渡来し、当初は山地や丘陵地の林で木の実を食べているが、次第に分散して冬には平地の畑、芝生、川原などの開けた場所で餌をあさり、単独で生活する。
 明るい林や林縁にもいて、庭や公園の木の実を食べる。動物質の餌としてはガの幼虫、甲虫類、ガガンボの幼虫、ミミズなどが多い。
 地上を数歩はねて、胸をそらせた姿勢で立ち止まり、何かついばんでまた跳ね歩き、立ち止まるといったことを繰り返す。
 その昔はカスミ網で大量に捕獲されて焼き鳥になったがそのため数を減らし、狩猟・捕獲禁止、野鳥保護のシンボルになった。18_p1080025

19p1090018

19p1090021

 
キジバト:ハト目ハト科
 留鳥、全長約33cm
2月中旬、雪の降った後の草地で餌をついばんでいました。近くに年中いて、昨年もご近所の道路沿いの庭木に営巣して子育てをしていました。

 平地から山地の林にすみ、市街地にもふつうにいる。木の枝や電線にとまって、喉をふくらませてデデーポッポーと鳴く。
 地上を歩いておもに植物質のえさをあさるが、枝上でアカメガシワやムクの実を食べることもある。近年は人に慣れて、人家の庭木や街路樹に巣をつくることもある。P2160045

 
シジュウカラ:スズメ目シジュウカラ科
 留鳥、全長約14.5cm
山に餌が少ない冬の時期に比較的多く姿を見せます。ツピー、ツピー、ジュク、ジュク、ジュクという鳴き声で、庭にやって来るとすぐ分かります。

 平地から山地の林にすみ、市街地の庭や公園でも繁殖する。胸から腹に1本の黒い縦の帯がある。黒い帯が太いものはオスで、細いのはメス。P2160073

| | コメント (0) | トラックバック (0)

« 2011年2月 | トップページ | 2011年4月 »