« マヤ文明とメキシコ7つの世界遺産を訪ねる旅(2015/2):その① | トップページ | マヤ文明とメキシコ7つの世界遺産を訪ねる旅(2015/2):3日目(午前) »

2015年2月17日 (火)

マヤ文明とメキシコ7つの世界遺産を訪ねる旅(2015/2): 2日目

 前回記事の続きです。冗長です。訪問予定の7つの世界遺産のうち、4つ目までの記録。

2日目:メキシコシティ見学
 メキシコには67の文化圏があり、建築物、絵画、など特徴的な1,300を越える遺跡が存在するという重層的な歴史を有する国家です。
 (以下、画像はクリックで拡大します。)

■早朝、ホテルの窓から。
 マキバブラシノキや、見頃の時期で、どこでも目にするジャカランダの花がきれいでした。Photo

 
■朝8:00発バスで。
 まずはじめに
 ●世界遺産②【メキシコ国立自治大学】へ。 
 ここでは1910~1940年頃の革命時代に連動した「メキシコ壁画運動」の影響を受けた『壁画の三大巨匠』アルファロ・シケイロス;ディエゴ・リベラ;そしてフアン・オルゴマン(モザイク画)制作の多数の壁画群中でも著名な、世界最大壁画作品が見学できます。

 バスを下りるとすぐに、既に学園都市「メキシコ国立自治大学」キャンパスの一部であるサッカー競技場(メキシコ五輪の時にメイン会場として建設された「Estadio Olmpico Universitario」競技場。約7万5千人収容出来るとのこと。) を目前にします。
 スタジアム入り口壁面にはディエゴ・リベラの巨大な作品が描かれています。
 写真撮りのみで前を通り過ぎて、地下道をくぐると「メキシコ国立自治大学」中核域へ。
 ほどなく敷地の奥に建つメキシコ国立自治大学(UNAM)とその紋章の本館高層ビル(学長塔(the Rectorate Tower)が目に入ります。
 そこからすぐに、手入れの行き届いた広い芝生地にある本館に到着。
 建物にはアルファロ・シケイロスの作品『民衆から大学へ、大学から民衆へ』というタイトルの立体的な壁画が描かれています。
 なお遠目には分かりませんが、モザイク画です。
 そこから、少し奥の北側に壁画で覆われた中央図書館が見えます。
 少し歩くだけで、フアン・オルゴマン製作による世界最大規模といわれる有名な壁画を目にしてあらためて驚嘆することになります。
 建物の四壁面は、各面の「テーマ」毎に描かれていて、まず目にするのは東側で、太陽と月、天使と悪魔、天動説と地動説、政治を象徴する巨大な壁画です。Blg

 
 北側(下の写真)はアステカ文明を描き、(西側はUNAM校章などを中心として学生達の役割を象徴表現、そして南側はスペイン植民地時代の圧政を表わしたもので、今回ブログには西と南の写真はありませんが)、それらは全てモザイク画で製作された壁画で、その偉容は見るものを圧倒します。
 (なお遠目にはほとんど分かりませんが、壁画はメキシコの自然石を使ったモザイク画で制作されていて、望遠マクロで見ると、確かに「モザイク画」であることが確認できました。)
 余談ながら北側に咲いていた赤い花とその赤い豆果が気になって、ガイド氏に聞くと「コロリン(Colorin、学名は、Erythrina americana)」という名前の樹木で、あちらこちらで目にしました。沖縄に咲くデイゴの仲間のようです。
 他にも本館や校舎の方々に絵があります。
 本館建物には、鷲とコンドルが描かれ、ラテンアメリカの結束を訴える壁画「大学の新しいシンボル」が設置されています。
 また本館棟横にもシケイロスの「手と鉛筆」の壁画があり、壁画の左隅には年代の数字が書かれていました。
 当該年はいずれもメキシコの歴史上、重要な出来事が起こった年です。2

 ◎ガイド氏の説明です。
 ・1520:アステカ帝国滅亡の前年。アステカはスペイン人コルテスによって1521年に滅ぼされました。
 ・1810:スペインの支配に対するメキシコ独立戦争が始まる。
 ・1857:自由主義憲法制定、イグナシオ・コモンフォルトが就任。  
 ・1910:メキシコ革命、始まる。  
 ・19??何を期待していたのか。書き込まれることはなかったようです。

 
 見学を終えた後、バスでメキシコシティから75km南に位置するクエルナバカへ。
 そこはブーゲンビリアの花が一年中咲き乱れる平均気温20℃の「常春の街」。
 現在は富裕層が週末を過ごす別荘地にもなっています。

クエルナバカ着後:
●世界遺産③【ポポカテペトル《標高5,426m富士山形で、現在も噴火中の活火山》山腹にある修道院群(14ヵ所)】のひとつ、クエルナバカ歴史地区の中心に建つ「カテドラル」(「フランシスコ会修道院(長崎の二十六聖人で有名)」)と併設の「修道院」を見学。

 ★クエルナバカ概略史:
  紀元前5世紀頃から栄えた多様な神々を崇拝したマヤ文明、それを継承発展させた最後の古代文明とも称されるアステカ帝国の伝統的文化文明は、スペイン軍による征服後、スペインからの宣教師によってキリスト教が布教され、アステカの「戦士の心臓を太陽神に捧げる」という生け贄の伝統的儀式は、キリスト教的倫理・価値観からすれば蛮行そのものとして直ちに排斥されました。
 また神殿や寺院なども徹底的に破壊され、急速な植民地化が進められて終焉を迎えました。
 そうしてスペインの植民地になってから間もなく、エルナン・コルテスがクエルナバカの町の中心部に館(コルテス宮殿)を構え、1529年にはコルテスの命令でカテドラルなどが建造されてクエルナバカは典型的なコロニアル都市として発展していきました。
 (なお郊外の小高い丘の上にはこの後訪問するソチカルコ遺跡もあります。)

 ・まずピンクの建物はテルセラ・オルデン教会。素通りです。
 ・庭園のような敷地の奥にカテドラルが建っています。
 カテドラル入り口の上部には、十字架の下に髑髏マークが置かれています。
 十字架が上にあるのは、死を超越する意味という。
 このカテドラルは、アメリカ大陸最古の教会の一つで、中心施設である聖堂の内壁には殉教壁画や、豊臣秀吉によって処刑された外国人宣教師と日本人カトリック教徒(日本二十六聖人)を題材にした殉教壁画も描かれています。
 その壁画最上部には[Empeerador Taycosama~(~のために皇帝太閤様が殉教を命じ)と書かれた文字が読み取れました。
 (なおこの日本二十六聖人殉教壁画は長崎の西坂公園にある聖人記念館にも飾られているそうです。)2250

 ・俗人雑念・・・:
 ともあれ、信仰心が薄いか無い、凡俗の輩にとっては無縁の世界ですが、異教に寛容な時もあれば、異教(徒)を弾圧排斥したり、また、されたりと、信仰/宗教世界は何時の時代にもヘゲモニーを競い合うものなのでしょうか。
 700万年の時空を越えて、ヒトがサルから分かれて進化する過程で大脳を発達させ、それに伴って”超越者”を意識するようになり、宗教(心)も生まれたのでしょう。

 ・ 神はしも人を創りき神をしも創りしといふ人を創りき
 ・ 人はしも神を創りき人をしも創りしといふ神を創りき
         香川ヒサ 『fabrica ファブリカ』 (平成8、本阿弥書店):
       (『現代秀歌』 永田和宏 2014/12岩波書店から孫引き)

 幼名日吉丸、あだ名はサル、長じて”太閤様”も、異教徒を弾圧したのです。

 
■見学を終えてクエルナバカ市内での昼食に向かいます。
 ブーゲンビリアの花咲く常春の市街地や、食後に眺めた中心街にあるカテドラルなどの風景もきれいでした。Blg_2

 
■午後:
 昼食後、クエルナバカから35kmほど離れた郊外の小高い丘の上に残る世界遺産④【ソチカルコ遺跡】(1999年文化遺産登録)へ向かいました。
 ここソチカルコ(古典期後半から後古典期初頭(AC700~900の200年間に繁栄))は丘の頂上部にもっとも古 い城市の廃城があり、周囲は防御用と思われる石垣によって幾重にも取り囲まれていて、戦闘的、要塞的性格が 強いことで知られた遺跡です。
 (余談ですが、遺跡には併設の博物館がありますが距離的には少し離れていて立ち寄りません。)Ge

 
 ・遺跡遠望。遺跡入り口の世界遺産標識から南に道路を200mほど辿ると石碑の広場①になります。
 石碑の広場を一周します。
 石碑の広場の中央には、絵文字が記された石碑が立ち、北にはソチカルコ最大の建築物である大ピラミッド②が聳えています。
 また東と西には神殿があります。 
 ガイド氏から遺跡の修復前後の対比など状況解説を聞きながら広場周辺を巡りました。
 広場の西南方向には南の球戯場⑦が眺められ、更にその彼方にロデオ湖も遠望できました。
 一巡後、修復の進んだ大ピラミッド②を眺めながら、その横を北に向かって階段を上って行きます。Photo_2

 
 ・途上に咲くコウシュンカズラの黄色い花など愛でながら、しばらくで、東の球戯場ゾーン③に着きます。
 東の球戯場コートの入り口には球戯場に下るかなりの勾配の斜路があります。
 (進入/通行出来ませんでした。)
 その入り口に、球戯場施設の解説・案内板があります。
 球戯場は東の他に西および南、計3ヵ所あること、また当時球戯は単なる娯楽競技ではなく、神聖な宗教行事のひとつであり、競技に赴く者は、その前に蒸気風呂で身を清めて試合に臨むことになっていました。(その蒸気風呂遺跡もあります。)
 競技者は、手を使わず、ゴール石(直径30cm程の穴の開いた石)の穴にボ-ルを入れ勝敗を競い、穴にゴムボール通した者が勝者になること。
 そして更になんと、”勝者”には、名誉の斬首!があったこと、また心臓は取り出されて太陽神にささげられた、生け贄になる名誉が与えられたという。(ただしこれには”敗者”が生け贄にされたという異説もあるそうです。)
 また競技場に下る斜路には各種の紋様(紋章)が浮き彫りにされた石盤“タイル”が敷き詰められていたそうです。
 判然とはしませんが、紋様の絵合わせしてみました。
 見学はこれまでで、下(球戯場)には降りません。1

 更に北へ向かいます。

 
 ・途上の周辺遺跡や道筋に咲くモミザなども眺めながら、西の球戯場④まで辿ります。
 着後、西の球戯場の上段からコート、ゴール石その他施設など見下ろすところで、とりあえず写真撮影ストップだけにとどめます。
 (ここは、後の残りの遺跡も全て見学した帰りに立ち寄り、通過しました。)2_2

 
 ・次は、進行方向としては少し戻るようになりますが、中央広場⑤に向かいます。
 ここは石碑の広場より少し広く、 また遺跡の中で一番高い位置にあり、西にアクロポリス、東に住居、南に3つの石碑の神殿が配置されています。
 周辺風景の写真を撮ってから、真ん中付近の「羽毛ある蛇」のケツァルコアトルのピラミッド(神殿)へ。
 神殿周囲の基壇全面に施さている、大きく口を開けた蛇のレリーフは、マヤ人にとって、「ククルカン」(羽毛の蛇:羽を持つ蛇)と呼ばれる神で、未開のマヤ人を文明化に導いた神的存在の人物の象徴ということです。
 神殿正面の階段を上って内側を覗くと、壁の内側に仕切りされた空間があり、ここで儀式など行われていたのではないかと推測されています。
 また、神殿には場所の名前、宗教行事、天文学、戦術などについて描かれたマヤ文字があり、ケツアルコアトル(蛇)の間に座ったマヤの神官や、蛇の上に乗ったマヤ神官の像も彫られていて、マヤとソチカルコの強いつながりがうかがわれました。Photo_3

 見学後、天文観測所遺跡へ向かいます。

 
 ・観測所は中央広場 北側から1段下にさがった段の、離れた場所にある小さな洞窟です。
 洞窟入り口に案内板があります。
 観測所は洞窟の天井穴から差し込む光を観測する洞窟構造です。
 洞窟内部は暗くて足元不如意ですが、20mほど進むと、一条の光が差し込む場所に出ます。
 (なお足元まで直線的に光が差し込むのはおよそ4月中旬から8月初旬くらいまで、ということです。)、
 訪問時には洞窟天井の吹き抜け穴の明かりが見えた程度で周囲は間接的にうっすら明るい、という感じでした。
 古代人はこの洞窟に入る光から、春分と秋分の日を割り出し、効率的な営農に役立てていたのだそうです。
 余談ながら遺跡の石組みの上では大きなイグアナが日光浴をする姿もありました。Photo_4

 
 ・見学後、同じレベルの段になっている西の球戯場のコートを通り、ゴール石も目の当たりにしながら出発地点に戻りました。Img_7718c

 
■観光後、メキシコシティへ戻ります。
 (所要時間:約2時間30分)
 メキシコを代表する楽団の様式であるマリアッチ(2011年、ユネスコの無形文化遺産に登録)によるメキシコ音楽を聞きながら夕食。Photo_5

          (メキシコシティ泊)

        3日目(午前)に続きます

|

« マヤ文明とメキシコ7つの世界遺産を訪ねる旅(2015/2):その① | トップページ | マヤ文明とメキシコ7つの世界遺産を訪ねる旅(2015/2):3日目(午前) »

旅行」カテゴリの記事

コメント

この記事へのコメントは終了しました。