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2016年4月25日 (月)

シルクロード(ウルムチ・トルファン・敦煌・西安)をめぐる旅(5)

 4日目の記事の続きです。

5日目:終日 敦煌滞在

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 ・メインの莫高窟見学後の所感を先に。 
  つとに有名な敦煌莫高窟。素人が初めての「観光目的」で、近年急速に“充実“した商業的観光システムに乗せられれば、まあこんなものか、というところでした。
 しかし、「千仏の威厳を感じる霊感と(仏教)信仰心の篤い先人の“感性”の発露である諸芸術的作品は、ほんの一部を垣間見ただけですが、世俗の素人の目にもすばらしいものでした。

●日程記録:

(午前)
  ホテルで朝食後、ホテル発8時10分、敦煌観光へ。

 
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※冗長な前置きメモ:

 *莫高窟由来と観光の現状:
 
①莫高窟(別名は敦煌千仏洞)(1987年世界遺産登録):
 敦煌は古代シルクロードの西域の軍事上の要衝であり、東西交易の拠点として繁栄し、また宗教、文化および知識が融合しあう合流地でもありました。
 その敦煌市の東南25km、三危山と鳴沙山の間を流れる大泉河(別名宕泉河)に浸食された鳴沙山の断崖上に築かれた仏像の石窟群が莫高窟。
 伝説によれば開鑿は4世紀後半、前秦の建元二年(366 年)頃。
 沙門楽僔という僧が、鳴沙山の東麓の三危山に夕日を浴びて輝く千仏の威厳を感じて石窟を築き、修業したのが始まりという。
 莫高窟は約千年にわたって掘られ続けた仏教芸術の聖地であり、最盛期には1000余りの窟龕(くつがん)を数えたそうだ。  
 現存する窟数は492窟。
 その内訳は、最古のものは5世紀初頭(北涼窟)の第268、272、275窟で、続く500年前後(北魏窟)の第237、248、251、254、257、259、260、263窟など。また6世紀前半(西魏窟)の第249、285、355、432窟などがこれに続く。  
 その後、北周、随、唐、五代、宋、回鶻、西夏、元など11の王朝と14の時代におよぶ約千年にわたり石窟の造営や修復が続いた仏教洞窟群なのだ。

 現在では敦煌文物研究院によって、その様式から判断して五胡十六国9 ; 北魏23; 西魏2; 隋97; 唐225; 五代34; 宋70; 西夏25; 元7 に時代分けされているとのこと。
 窟の内部は石質が粗い礫岩であるため、四壁と天井を漆喰で塗り、その上全体に壁画を描き、塑造の仏像が安置されている。
 仏像類は2,415体にのぼり、例外的な石彫を除き鮮明な彩色が施されている。
 石窟の大きさは最大のもので268㎡、最小のものは1㎡未満とさまざま。
 壁画は洞穴の四壁、窟頂と仏龕に、モチーフとして宗教及び世俗生活の様子が表現豊かに描かれている。
 すべてを並べると約25kmの長さにも及ぶため「世界画廊」との異名がある。
 なかでも、飛び交う飛天(インド仏教における伝説の護法神で、空中を舞う天女)は敦煌芸術のシンボルで、莫高窟の全492窟の中で270の洞窟に飛天の絵が描かれていてその総数は4500ほどもあるという。
 また塑像はほとんどが仏教の神仏で、仏を中央に弟子や、菩薩が両側に沿って配置される群像になっている。
 
 なお、莫高窟のシンボルは九階建ての楼閣石窟(第96窟)。
 九階構造の最上部は断崖と同じ高さ。その楼閣の中に高さ35.6mの弥勒大仏坐像(北大像)がある。
 土を盛り上げて形を整えて作られた石胎塑像で、中国で三番目の大きさとのこと。
 なお他に、莫高窟第130窟の中にもう1体、高さ26メートルの大仏(南大仏)があり、両者とも弥勒菩薩像。

 
②現在(2016/4)の見学
 2014年7月15日、敦煌莫高窟デジタル展示センターが開設されたことに伴い、新しい見学システムが導入されています。
 莫高窟見学はこのデジタル展示センター入場から始まります。
 まずデジタル展示センターでの映像による紹介が始まる30分前までに「観光客センター」へ行き、検札を受けてから展示室に入ります。
 展示室を見学後、映像による紹介があります。
 映像内容は、デジタル展示センターに設置された直径18メートル、面積500平方メートルの円形スクリーンで、「デジタル敦煌」(歴史的背景をドラマ化した3D作品を含む2本の映画)を観るというものです。 
 映像を見終えてから次の観光カート待合室へ行き、カートに乗ります。
 カートに乗って、莫高窟石窟見学入り口に到着後、少し待たされてから、さらに莫高窟案内専門ガイド(日本語ガイド指定)の案内に従って窟内の見学になるのです。

 
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参考
 敦煌莫高窟石窟の公開情報(2015年4月時点)
 (現在の最新の情報ではありませんのでご留意を。)
   http://www.tibet-arukikata.com/ 
  ・シルクロード-敦煌他見学できる石窟のご案内
 (表はクリックで拡大します。)Blgimg25720154

 なお、このシステムで半日観光の所用時間は、合計4時間ほど。
 このシステムが運用されるようになってから混雑を避けて効果的に見学できるようになったのだそうです。

 
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 訪問当日の窟内見学はガイドさんにお任せ。
 半日観光で見学出来る窟数は8~9窟と言うことです。
 どこの窟に案内されるかは見学を開始して見ないと分かりません。
 一般公開窟の見学先が補修作業中だったり、あるいはその時の混雑状況で別の公開候補窟になったり、また特別窟に関しても同様。  
 そのため見学時、行く先々で迷子にならないよう、ただひたすらガイド氏の後を追うだけの、ほとんど消化不良になりましたが・・・・・  
 増え続ける観光客をシステム化したスケジュールで捌くとすれば、必然的にこうなるのでしょう。

 古い資料(1999年)ですが莫高窟の配置図です。(クリックで拡大します。)21999

 ★実際の見学9:00~13:10頃まで。
  一般公開窟の他に、2つの特別窟(第156窟<晩唐期>:張議潮出行図・宋国夫人出行図、及び第217窟<北魏>:自己犠牲を描いた本生図)を見学予定でしたが、正直のところ、どこが見学出来たのか、(記憶にも)メモ記録も無くはっきりしませんが、合計9窟(だった)と思います。
 なお、最後に案内されたのが第16-17窟で、17窟(蔵経堂)は第16窟の甬道の壁に穴を開けて作られた“隠し部屋”になっていました。
 その中には4万点に及ぶ経典や仏画、書画が隠されていた事で有名になった石窟です。

 *写真撮影禁止:
  建物外での外観/風景は撮影可ですが、窟内では撮影禁止ですので、壁画などの写真は一切ありません。
 (なお、翌日訪問した「敦煌博物館」には莫高窟内の塑像レプリカや画像パネル展示などがあり、こちらは撮影可でした。)
 
 以上のようなことで、見学しても、ほとんど記録・記憶に残せないため、参考として
 *書籍
 『敦煌とシルクロード』 蘭州大学 杜闘城、敦煌研究院 王書慶応 編著、海天出版社刊 ISBN 7-80697-403-2 (人民元185.00):(日本語版がありました。)
 *絵はがきセット(敦煌石窟:香港中国旅游出版社、40元)を購入して、後のブログ作成の参考としました。

●記録写真
  順に、
  ・莫高窟デジタル展示センター入場Photo

 
●莫高窟到着、入場後の風景や窟の外観などで、莫高窟のシンボル九階建ての楼閣(第96窟)や、その他(黒い山は三危山など。)1

2

 なお壁画、仏像塑像などは上記書籍と絵はがきから、見学した壁画の飛天と塑像の例示コピーを以下に添付しました。
 壁画の「飛天」実像は(絵はがきのとおり)すべて体の色が黒くなっていて、最初はイメージがわかりにくかったものです。
 ガイド氏によれば、飛天を描くのに用いられた顔料に含まれている鉄分が酸化して(発見当初の美しい色彩は失われて)黒くなっている、とのことでした。

 
 ・絵はがきから塑像3img249

 
 ・第45窟:4img25145

 
 ・壁画飛天(部分):第285窟(左);第185窟(右):5285185

 
 ・第259窟<北魏>淡い笑みを浮かべた禅定佛塑像:Blg259

 
 ・壁画飛天(部分):第419窟(上)、第206窟(下):6419206

 
 ・壁画:第61窟(上)、254窟(中)、428窟(下):761245428
 ・第61窟(五代):五台山送供図
 ・第254窟壁画(北魏):
  屍毗王(しびおう)が自分の肉を割いて鳩の替わりとした物語(古代インド)。
 ・第428窟(北周):
  薩埵王子(さったおうじ)が身を捨てて虎を助ける物語(古代インド)で、上、中、下の3段に画かれているのは、後世法隆寺の玉虫厨子に描かれたのと同じ“捨身飼虎図”と言われる画を含む物語風の連続コマ絵。
 7匹の子虎を抱いた空腹の母虎が餓死寸前の苦しみに瀕している姿を目にしたサッタ王子は、8つの命を救わなければならないと、崖から母虎の前に飛び降りてわが身を捧げて8つの命を救ったという物語です。

 
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 ◇参考: 敦煌研究院の『数字敦煌(デジタル敦煌) 洞窟列表 莫高窟』というHPがあります。  アドレスは http://www.e-dunhuang.com/section.htm?ddhs/Core/Core/Core/Metedata/Title=%E8%8E%AB%E9%AB%98%E7%AA%9F

 *PM 1:10頃莫高窟見学終了、昼食地へ移動。

 昼食は「郷土料理」で、辛すぎず美味しかった。

 (午後) 
 PM 2:20出発、敦煌の北西バスで90分、玉門関に向かいます。

 
 ・途中には独特の風景が広がっています。Photo_2

 
 *PM 3:50玉門関着。
 到着時の天候は晴れたり曇ったり。そしてまた風が強く吹いて砂塵が巻き上がり、砂粒が飛んでくるため帽子、メガネ(サングラス)、マスク、襟首にマフラー(タオル)装備に。
 暑苦しいのを我慢するか、砂粒飛散を我慢するか。
 (なおこの後の漢代長城見学時も同様でした。)

●[玉門関]:漢朝の西端の関所跡・世界遺産
 玉門関は、中国の漢代に置かれたシルクロードに通じる関所の1つ。
 元来は漢の武帝の時代に漢族と異民族が対峙した西域攻防の最前線として、防衛する目的で、長城をこの地域に建設し紀元前108年から107年にその最西端に建造されたとされる。 
 ここから出ると「西域」になる。
 玉門関の中ではシルクと玉が交換された。

 ・見学写真:
  広漠とした風景。時折風に煽られた砂塵が舞います。
  余談ながら、車窓からは、乾燥した砂漠にたくさんのラクダソウが生えているのを遠望できます。
  大きく鋭いトゲを持つ植物ですが、名前の通りラクダが食べるそうです。
  ラクダソウには四種類ぐらいあるそうですが、ここで間近で見かけた巨大な鋭いトゲ(5cmくらいもある)のあるその一つの画像を最後に。
Photo_3

 見学後、PM 4:30発、4km先の漢長城に向かう。

 
●[漢長城]:前漢時代に対匈奴用に築かれた長城の址。
 漢代の長城は、玉門関の西から疏勒河の南岸に沿い、安西縣北湖、金塔縣まで延びる幹線の他に支線も造られ、総計1,000kmを超えるという。
 構造は、黄土(砂)と葦や紅柳、胡柳を層にして棒状のもので突き固めた「版築」で、漢代のものは20cm前後の黄土の層になっている。
 紀元前121年に酒泉郡が設けられた後に、漢の武帝は令居(今の永登)以西の長城やその間に烽火台を建てはじめた。
 高いところでも4mほどだが、約2000年にわたる風触のため現在残された部分は少ないが、玉門関付近で最も保存状態の良い長城を見ることができる。
 北側を疏勒河が流れている。

 ・見学写真New

 なお、バラバラに作られていた長城を、秦の始皇帝が繋いでいった。
 後の『万里の長城』は「明」の時代に出来た6,700Kmにおよぶもの。

 ともあれ、日本のような島国と異なり、大陸で地続きの民族/国家間の抗争が歴史的に絶えることがなかった結果、長い壁が出来上がってきたようですが、現代においても、某国で”国境に壁を建設する”とブチ上げる御仁もおられるなど、争い事は人類が滅亡するまで、途絶えることのないニンゲンのさが(性)なのでしょうか。

 長城見学後、PM 5:00発敦煌市内に戻る。

 ・PM 6時半、レストランで夕食。敦煌の家庭料理。

  
 ポプラ林に囲まれた葡萄畑など沿道の風景を見ながら日の沈む頃
 ・PM 8:00ホテル着2pm8

 
 なおPM9時30分、(希望者のみ)ゴビ砂漠の星空観賞へ出発。
 しかしあいにくの曇天で晴れることなく、何も見えませんでした。
  
             【敦煌/泊】         
            - 6日目に続く

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