マヤ文明とメキシコ7つの世界遺産を訪ねる旅(2015/2):5日目
本日(5日目)の日程は、今回メキシコツアーハイライトで世界遺産⑦【チチェンイツァ遺跡】の見学、その後カンクンに移動、宿泊まで。
「チチェンイツァ遺跡」はユカタン半島メリダの東にあるマヤ文明古典期最大の遺跡。
遺跡は6世紀頃マヤ古典期に属する「旧チチェンイツァ」と10世紀以降に栄えた「新チチェンイツァ」の2つのエリアに分かれています。
※概略行程:
ホテルから徒歩でチチェンイツァ遺跡見学に。
大神殿「エルカスティージョ」(ククルカンのピラミッド)、ジャガーと鷲の台座、ツォンパントリ(頭蓋骨の台座)、球戯場、セノーテ・シトロク(生け贄の泉)、戦士の神殿、カラコル天文台、尼僧院,東別院と教会を見学後、遊泳可能なセノーテのあるレストランで昼食。
食後の自由時間に泳ぐ人も。
遺跡の見学を終えて、バスで暮れなずむドルフィンビーチを眺めながら宿泊地カンクンへ。
カンクンホテル着は午後7時。
※前置き:
メソアメリカ、ユカタン半島南部の密林には数々のマヤ文明都市の興亡がありましたが、中でも200年以上にわたりユカタンにおける芸術、宗教、経済の中心地だったというチチェンイツァ。
以下は持参したガイドブック参照要約。
チチェンイツァはマヤ語で“泉のほとり”のイツァ人、そして“泉”はユカタン半島で最大の水源地セノーテ(聖なる泉)のこと。そして、ここを中心に繁栄した都市だった。
マヤ文明には二つの繁栄時代があり、一つは6世紀頃のマヤ古典期に属するマヤ独特の顕著な特徴を持つ文化(旧遺跡エリア)として栄え、7世紀には隆盛を極めたが、その後マヤ王族は一度自らこの地域を去って行った(定期的に遷都を行っていた)という。
そして次には10世紀になってマヤ人は再びこの地に戻り、新たな都を築いていったが、その文化には、当時中央高原の覇権を握っていた戦闘部族トルテカ人の影響を受けたことがうかがわれる新しい特徴(新遺跡エリア)が現れている。
すなわち旧遺跡のカギ鼻の神(雨神チャック、また山神と考えられている)を祀った素朴なモチーフに加えて、新たに好戦的な戦士の像や、生け贄にされた髑髏、そしてトルテカの象徴であるククルカン(羽毛の蛇)が加えられるようになった。
その後、軍事国家に変貌して栄華を極めたが、13世紀のはじめにマヤパン族との戦いに敗れて滅亡させられ長い歴史を閉じてしまったという。
ちなみに、この頃の日本は1192年源頼朝が鎌倉幕府を開いた鎌倉時代で、その後1274年には元寇(モンゴル軍襲来)に脅かされていた時代。“神風”が吹いて助かりましたが・・・
●見学記録:
①朝ホテル内散策。
当然,初めて見る動植物です。
エレファントイヤー(象の耳)の大木には、名前のとおり、象の耳のような形の青い果実はたくさんついていました。
尾羽の長いカラスのような黒い鳥はオナガクロムクドリモドキ♂*でした。(♀は後に、ドルフィンビーチで見かけました。)
(*オナガクロムクドリモドキ(ムクドリモドキ科)、分布は南北アメリカ。
全長オス約43cm、メス33cm
オスは長い尾をもち、全身が金属光沢のある紺色。
眼は金色。メスは茶褐色で、尾はオスより短く、眼はよごれたような白色でオスと異なる。
もともとの生息環境は湿地だが、都市や農耕地などにもすむ。
都市の公園などを集団ねぐらにすることがある。地上で、昆虫やトカゲ、水辺でカエル、魚などもとる。ほかの鳥の巣から卵やひなをとることもある。
またカラス類のようにゴミにも集まる。)
②徒歩でホテルを出て遺跡に向かいます。
途中で向かって左奥にカラコル(天文台)が見えます。ほどなく入り口近くの売店/トイレゾーンに到着。
ここでしばらく時間調整の待ち時間。その間に、ご婦人方はマヤ文字入りの手作りペンダント注文などのお楽しみなども。(遺跡見学後の帰りに受け取りです。)
一見ネムの花に似た大きな赤いブラシのような花木が目に入りました。
後で調べて見ると「プセウドボンバックス・エリプティクム」*と分かりました。
(*プセウドボンバックス・エリプティクムPseudobombax ellipticum(アオイ科ボンバックス属):
本来多肉植物の仲間だそうですが一般的な樹木に近く、成長すると高さ18m、直径2m近い大木に成長します。
そして大木になると、非常に長い雄しべが密集した、ピンク色の美しい花を咲かせます。
花の形はヒゲ剃の時、クリームを塗るブラシに似ているため、英語では“シェービング・ブラッシング・ツリー”と呼ばれています。
分布はメキシコ南部、グアテマラ、エルサルバドル、ホンジュラス。)
※余談:
チチェンイツァの旧遺跡と新遺跡を行き来する敷地内通路沿いには、たくさんの民芸品を売る屋台が並びます。
それらの出店は、正規のゲートは通らないで、森の中から毎日チチェンイツァ敷地に入りこんで店を広げている違法屋台だそうですが、地元の仕事を確保するために黙認されているのだという。
朝一番には、確かに森の中から手押し車などを押して現れたり、すでに観光通路沿いに開店準備をしていたりする様子も目にしました。
見学通路両サイドに並んだ屋台店の民芸品は見るだけでも”異国情緒”たっぷりでした。
③エルカスティージョを横目に見ながら通過、ここは最後にじっくり見学に。
④ジャガーと鷹の台座:
生け贄の心臓を捧げる儀式が毎日行われた場所だという。
壁には片手に心臓を持っているジャガーと鷲のレリーフがあります。
そして鷲のレリーフの石は出っ張り、ジャガーのレリーフの石は凹んでいるので、鷲の方が強かったという。鷲はトルテカ族を象徴するという。
⑤頭蓋骨の台座(ツォンパントリ):
球戯場の隣にある祭壇(台座)「ツォンパントリ」は生け贄の骸骨を大衆にさらす場所だったともいう。
台座の壁一面には、様々な表情の頭蓋骨、また串刺しにした生贄の頭蓋などが彫り込まれていて、そのおどろおどろしさはマヤの伝統的な文化とは異質で、トルテカ文明の影響の現れという。
1年の無事を祈願して毎年1本ずつの葦が束ねられ、52年でそれが1つの丸い石の彫刻となり、祭壇内に埋められたともいわれる。(博物館ガイドブックも参照)
気持ち悪いが、時代はずっと下がった江戸時代の刑場には見せしめのさらし首もあったということだし・・・
⑦ジャガーの神殿:
球戯場の東壁に造られた小神殿正面にジャガー像が置かれ、壁の内側には戦闘風景が克明に描かれています。
森に住むジャガーはマヤ人にとっては畏怖の対象で、強さのシンボルでした。
⑧球戯場へ:
全長150mある球戯場は豊穣の神に祈りを捧げるための「聖なる宗教儀式」として競技が行われるスタジアムだったという。
コートの両側は、上部になるほど内側にせり出していて、音が反響して遠くまで届くように設計されていて、ガイドの勧めで手を叩いて見るとすごく反響することがわかります。
ゲームは既に述べたとおり、ゴムのボールを手は使わないで、肘や腰にあてて壁の上部に取り付けてある石の輪(ゴール石)にくぐらせたら勝ちで、勝ったチームのキャプテンが“栄光”をになって“生け贄”にされたという。
(これには異説があり、勝者が敗者を生け贄に捧げたという解釈もあるとのこと。)
球戯場内壁の基壇部分には勝利者(または敗者)が斬首され、流れる血潮が7条の蛇となってほとばしり、その先から植物が芽を出そうとしているレリーフなどもあります。
エルカスティージョを横目に眺めながら、旧チチェンイツァ域の聖なる泉(セノーテ・シトロク)見学に向かいます。
⑨聖なる泉(セノーテ・シトロク)見学:
道の両側に民芸品の屋台が並ぶ新・旧チチェンイツァ域を結ぶ森の中を通り、セノーテ・シトロクまで往復します。
「聖なる泉」はユカタン半島最大規模で、しかも神話に彩られた聖域でした。
日照りの時期には若い処女が人身御供として投げ入れられ、また、生け贄と同時に様々な貢ぎ物も捧げられたという。
後年の調査で泉底からは多数の人骨と共に多量の貴金属製品などが発見されたとのこと。
見学時には、黄緑色に濁った水が淀んでいて、往時の神秘な面影、雰囲気は感じられなくなっていましたが。
(※セノーテ:ユカタン半島の湿潤密林地帯には川がなく、地面は石灰岩質の土壌であるため、降った雨は全て地中に浸透し、地下に水の溜まる空洞が出来、その空洞の上の地面が崩落・陥没して出来た泉で、貴重な水資源でした。)
⑩再び新チチェンイツァに戻り、ハイライトのエルカスティージョ見学へ。
●エルカスティージョ:
「映像などでも度々紹介されていて、つとに有名な「ククルカンの降臨」の現地。
実際に見た現地現物の第一印象はさしずめよく整備された商業的「テーマパーク」。
じっくり見学を、といっても現在では”昔“のように頂上の神殿に登ることは禁止されていて、従って、当然神殿内部の見学あたわずで、ただ周辺から眺めるだけ、ということなのです。
たとえ、春分あるいは秋分の日に、混雑を承知で、「ククルカンの降臨」が見られることを期待して行ってみても、当然ながらその限られた時間のお天気次第ですから、やはり記録映像で眺めるのが一番、とイージーな感想になりました。
「心眼で見える」というありがたさを理解する能力に欠ける凡夫は何ともしようがありません。
「新チチェンイツァ域に建つ大神殿「エルカスティージョ」は城という意味をもつ遺跡の求心的な存在で、それ自体が巨大カレンダーとしてマヤの暦を表しているという。
マヤの最高神ククルカンを祀る「ククルカンの神殿」とも呼ばれ、高さ24m、1辺56mで9層になっています。
ピラミッドの4面にある各階段は91段あるので91×4=364、これに頂上の神殿へ登る1段を加えて365になり、太陽暦の1年間を表わすという。
そして、昼夜の長さが同じになる春分と秋分の日、太陽が西に傾くと、北側階段の側壁に現れる9層の神殿基壇の影が蛇の胴体、明るい部分が羽の形となって階段下部のククルカンの蛇頭像と合体し、巨大なククルカン(羽毛を持つヘビ神)が姿を現す。
これが「ククルカンの降臨」の仕組み。
⑪戦士の神殿へ:
3層の基壇を持つ「戦士の神殿」。
周辺は戦士の浮彫がある石柱群に囲まれていて「千本柱の神殿」とも呼ばれています。
戦闘部族であるトルテカ文明の影響が見られます。
入り口階段上部には腹部に生贄の心臓を置いたというチャック・モールが横臥しています。現在ここまで立ち入ることは出来ません。
⑫アオマユハチクイモドキ:
再び森の道を通り、南の旧チチェンイツァ遺跡に向かいます。
途中の林にきれいな青い鳥がいました。
アオマユハチクイモドキでした。
⑬尼僧院のグループ:
南前方に①尼僧院が見えてきます。尼僧院は古典期後期の3階建ての大きな建造物です。
②正面階段の一部が崩壊し、また階段右側奥の壁にはダイナマイトで破壊されたという大きな穴が開いています。
建物内には修道女の個室のような部屋がたくさんあったので、スペイン人が勝手に尼僧院と名付けたという。
建物突き当たりを東に沿って進むと, ③④⑥尼僧院東端の左手に⑤教会があります。
⑦⑧⑨⑩教会を左から回り込んで 尼僧院東端にある⑪⑫「東別院」正面に出ます。写真撮影のベストスポットです。
⑬左が東別院の東正面で、右が教会の裏側(東面)です。両建物の壁面には、マヤ人が信仰した雨神チャックが多数配置されたプウク様式のデザインで、ここではまだトルテカ文化の影響を受けていないことが分かります。
⑭東別院と教会の角にあるチャック像のアップ。チャック像の丸まった鼻は先が欠けたものが多いですが、(写真右)教会側のチャックの鼻は完全な形が保たれています。鼻の上には鳥?のような象形も。
⑭カラコル(古代マヤ人の天文台):
古代マヤ人の天文台で、旧チチェンイツァを代表する建築物の一つ。
上部の形は現代の天文台にも相通じるデザインです。
9mの露台の上に高さ13mの観測台が載っています。観測室の東と北側は崩れ落ちていますが、天体観測用に、西・西南・南の3つの窓が残っています。
月、太陽、星の運行を肉眼で観測して驚くべき正確な暦を作り上げていたという。
⑮高僧の墳墓を見学しながら、午前中の集合場所売店/トイレゾーン売店へ戻ります。
高僧の墳墓と伝えられる旧チチェンイツァの小型ピラミッド型神殿は、発見時、崩壊が激しくほとんど原形を留めていなかったが、近年修復が完了。
ここから貴重な埋蔵品も発見されたという。
⑯昼時を少し過ぎたので、昼食と “泳げるセノーテ”「イク・キル(IK Kil)」見学へ:
チチェンイツァの3km東に、泳げるように整備された天然のセノーテがあり、レストラン・売店があります。
トイレ、更衣室、シャワーなどの設備も整備され、遊泳時に必要なら、ライフジャケットも借りられます。
昼食後の自由時間に泳いできた人もいたようです。上から見下ろしただけですが、泳いでいる人は楽しそうでした。なお画像最後のピンクの花木はマクリース。
⑰全ての見学を終えてバスで宿泊地カンクンに移動。
途中暮れなずむドルフィンビーチで写真ストップ。
オナガクロムクドリモドキ♀を見かけました。
ホテルの部屋に落ち着いたのは夕食前の午後7時ちょうどでした。
カンクン(2連)泊
-6日目に続く-
余談の余談:
チチェンイツァ遺跡の見学を終えての正直な感想は、当初イメージしていたような、もっとスピリチュアルな雰囲気をまとったマヤ文明を象徴する遺跡ではなく、新設の整備されたテーマパーク、という印象になってしまいました。
しかし、考えてみれば、往時には毒蛇やジャガーなどの猛獣が潜み、黄熱病を媒介する蚊も生息していたというジャングルの中に点在しているままでは、観光ツアー等の了見では近寄ることさえ出来ませんから、こうなっているのが至極当然なのでした。
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